【中学受験小説】本番まで五カ月。成績不振、夫婦不仲にSNSの恐怖…。母たちのゆらぐ思いが交錯する秋
【前回まで】娘・沙優が夏期講習に通う夏休み、実家に立ち寄った美典は、以前塾講師だった弟・夏樹に、中受の悩みや愚痴のあれこれを発泡酒を片手に聞いてもらう。そんな中、父親が急死して家計が厳しかったことから美典が大学進学を諦めたこと、それに対し悪気なく「教育費をケチれてよかった」と言った母の言葉、そんないまだ弔えていないもやもやとした気持ちと自身の学歴コンプレックスを自覚するのだった……。
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「費やしてきた時間とお金を考えたら、失敗したくないって思うものよ」親が様々な思いを抱える小6の夏【中学受験小説連載】
【第二十話】 小6・9月

沙優の小学校では、秋の祭典という行事があり、音楽会、学芸会、展覧会が、毎年一つずつ、順番に行われる。今年は音楽会の年で、六年生は『君をのせて』を合唱し、『ブラジル』の演奏を披露した。沙優は木琴のパートで、なかなか上手に演奏できていて、美典はホッとする。
水曜日の午後という時間帯のせいか、保護者の参列はまばらだ。土曜日の午前中にも鑑賞会があるので、会社勤めの人はそちらに行くのだろう。
そんな中、たまたま玲子とエレナの姿を見つけ、美典は跳び上がりたいほど嬉しかった。
「こうして三人揃うのって、すごく久しぶりな気がするわ」
玲子の言葉どおり、二月に『バディーズ』でビールを飲んで以来だった。二人にそれぞれに会うことはあったし、三人のグループLINEでもやりとりしていたものの、やっぱり三人揃うと特別だ。
「二人とも忙しそうだね」
美典が労うように言うと、エレナは苦笑まじりに頷いた。
「類の受験が終わるまでは仕事をセーブしたいんだけど、そうも言っていられなくて」
「そうなのね。あたしもバタバタしてる。模試も増えたしね」
玲子が言うので、
「そうなの。今週の土曜もあるものね」
美典はすぐに話に乗った。
「それもあって、水曜午後の鑑賞会に来たのよ」
エレナも前のめりになる。
「そうそう、同じ」
美典と玲子は同時に頷いた。
広尾ゼミナールの合格不合格診断テストは母数が多く、全体での立ち位置がよくわかると評判だ。塾の保護者会で受験を勧められていた。
「広尾ゼミナールの模試って、詳細な分析があっていいわよね」
エレナの言葉で、美典は先月の公開模試の結果を思い出し、気が重くなる。啓明セミナーの模試とは問題の傾向も違うし、偏差値が低く出ると理解していたものの、それを差し引いても目も当てられない成績だった。
六月の啓明セミナーでは自由が丘国際学院中学校の一回目の合格判定が50%と出て、沙優と二人で大いに盛り上がったのに、その結果よりも四教科の偏差値が10以上低かった。
「結果に一喜一憂ばかりで、分析ができているか自信ないんだよね」
美典はため息まじりにこぼした。
「模試の結果に振り回されないでって塾の先生は言うけど、そんなの無理よ! 無理!」
玲子は激しく同意するように言って、美典の肩を軽く叩く。
「ところで過去問はじめてる?」
エレナが尋ねる。
「うちはまだ」
美典が首を横に振ったが「先週はじめてやってみたの」と玲子は言った。
「十年前のものだったけど……全然ダメね。丸つけの時に心臓がぎゅーってなったわよ」
玲子は学校名まで言わなかった。どれほど仲が良くても、受験校のことは教え合わないほうがいい。
三人は体育館を出て、スリッパから靴に履き替えた。
「もし時間あればお茶したいけど」
「ごめん、美典さん。真翔を塾に送ったあと、夫と用事があって」
「うちも類が帰ってきたら、すぐに家庭教師が来るから」
「そっかそっか。ちょっとでも会えて嬉しかった」
正門の前で二人と別れてから、美典は小さなため息をついた。
今日はパートがないので、本当は二人とゆっくり話したかったな。
広尾ゼミナールの結果が出てから、沙優は神経質になって、机の下に髪が散乱することが増えた。もし時間があれば、二人に相談したかった。とはいえ、あの様子では、みんな手一杯だろう。
来年の二月まで、あと五カ月を切っている。
ここまで来て撤退はありえないが、このまま進み続けていいのか、いまだにわからなくなる。でも、わからないと言っている間にも、日々はものすごい勢いで進んでいく。立ち止まるわけにはいかなかった。
—
真翔を塾に送って急いで買い物をし、玲子は夕飯にビーフストロガノフを作った。クリニックはさほど混まなかったのか、十九時前に翔一は帰ってきた。
「お父さん、今日は家にいられるの? 一緒にご飯食べられるの?」
父親が帰宅して、莉愛は無邪気に喜ぶ。今日はいるよ、と翔一が笑顔で答えると、莉愛はその脚に抱きついた。
翔一が平日にウィークリーマンションで暮らすようになって二カ月半。父親があまり帰ってこない理由を「仕事でいろいろあって」という曖昧な言い方で、玲子は子供たちをごまかしている。真翔はあまり何も考えていないようだが、堪の良い莉愛はその不自然さを感じ取っていた。だからこそ、いつも以上に健気なほど子供らしく振る舞っているのだろう。
莉愛の話を二人で聞いて笑って、食卓は何事もないかのように華やいだ。莉愛が食べ終えて、友達とメッセージのやりとりをするのにスマホを持って二階へ行ってしまうと、とたんに会話はなくなる。同じ場所なのに、一瞬にして場の空気が変わった。
「真翔の面接だけど」
沈黙を打ち破るべく、玲子は切り出した。
「送ってくれたテキストは見たよ。どうしてこの学校を選んだのかとか、一般的なことを訊かれるんだろう」
「そうだけど、志望動機にしてもどう答えるかが大事なんだから。幼稚舎から医学部に進学したあなただからこそ答えられることがあると思うし、当日に答えられるようにまとめておいて。それと、面接は基本的には夫婦揃って参加だから。クリニックはお休みを告知するし、どんな予定も入れないで」
「患者さまにはご迷惑をおかけしますが、致し方ない」
「何よ、その言い方。しょうがないじゃない」
「わかってるってば。承知しております」
慇懃な言い方にむかついたが、玲子は理性を手放さないように努める。今日は喧嘩をしないこと。そう決めていた。
「そろそろ帰ってきたら? お義母さんにもおかしいって思われてるんだから」
玲子がそう言うと、翔一はグラスの赤ワインを飲み干してこちらに顔を向けた。
「つばきとは別れた」
「ふうん」
「でも、玲子は信じていないんだろう」
「あなたがそう言うんだったら、信じるしかないじゃない」
「いや、信じてないよ」
「あたしが信じているか信じていないか、証明しようがないことでしょう」
「つまりそういうことだよ。俺たち、お互いに信じられなくなっているんだよ」
「何が言いたいのかわからないけど……別れたいってこと?」
「そうじゃない。もう少し心を整理する時間がほしい」
「二カ月以上別々に暮らしているのよ?」
「そうだけど」
「これ以上続けたら、もっと心が離れるだけよ?それくらいわからない? あなたって勉強はできるかもしれないけど、そういうところ、びっくりするくらい理解できないのね」
喧嘩しないと決めたのに、強い口調になってしまった。はあ、と翔一はため息をつく。
「俺が悪いよ。それは紛れもない事実だ。だけど、そういう気持ちになったこともわかってほしいんだ」
「ちょっと待ってよ。それってあたしが浮気されてもおかしくない妻だってこと?一緒にいても楽しくない、逃げ出したくなるような奥さんだってこと?」
「だから、そういう言い方をしないでくれって」
翔一は苦しげに額に手を当てた。
何なの? あたしが悪者? この期に及んで被害者ぶるなんて……。
「つばきさんに会わせて」
爆発しそうな憤りを飲み込んで、その代わりに玲子は言った。はあ? と翔一は聞き返す。
「何のために? 意味ないだろう。っていうか、連絡を取らないと約束したから、できない」
「意味なんてないわよ。あたしをこんなに苦しめている元凶をこの目で確かめたいだけ」
「確かめて気が済むのか?」
「気が済むかどうかわからないけど……道の端っこにある黒い物体が生き物の死骸なのか、誰かが落としたシャツなのか、怖くても確かめずにはいられない。そんな気持ちよ」
「悪いけど、断る」
翔一は席を立った。
「また、そうやって逃げるのね」
玲子は両手で顔を覆う。
—
怒りのマークや怒った顔を随所につけて、エレナはXに投稿。
──モラハラ夫が昼間からエレキギターを弾いていて、もうすぐ家庭教師が来るからやめてほしいと言ったら嫌な顔をされた。

──最近顔を合わせれば言い合い。三塁で生まれたとか下駄を履かせてもらってきたとか夫に暴言を吐かれて以来、心がシャットアウト。
エレナはスマホを食卓に置いてリビングを出て、耳をそばだてる。今日は家庭教師が試験監督になって、三年前の麻見谷中学校の算数を解くことになっているので、子供部屋からは先生の声が聞こえてこない。そして夫の部屋からも、ギターの音は聞こえてこなかった。一応、こちらのお願いを聞いてくれたようで安堵するが、それにしても先ほどの態度を思い出すと憤りを覚える。
過去問をするからエレキギターを弾くのをやめてほしいとお願いしただけなのに、淡田は不服そうな顔でため息をついたのだ。エレナはほとほと困惑した。
「どうしてそんな顔をするの? 勉強を頑張っている息子を応援してあげる気持ちはないの?」
「応援していないわけじゃない。ただ、たまに家でゆっくりギターを弾くくらい、自由にさせてほしいだけ」
徹夜明けで目の下に隈ができた顔で、淡田は言い返した。彼の仕事が忙しいことは理解しているし、たまに家でゆっくりしてほしいとも思う。ただ、いまは類にとって大事な時期なのだ。そこは保護者として協力するのが道理じゃないのか。
そこでインターフォンが鳴って家庭教師が来たので、それ以上の言い合いをせずに済んだのはよかった。あの人と喧嘩しても勝敗がつくことなどない。ただ嫌な気持ちが残るだけ。それはお互い様かもしれないとも思うから、少しばかりの自己嫌悪にも陥る。
スマホが短く震えた。Xのダイレクトメールに印が付いていて、開いてみると、《ひよどりママ》からだった。
『投稿読んだよ、大丈夫? ハイスペなアマディスさんが努力してこなかったような言い方は酷すぎるわ』
ダイレクトメールだと、Xでは書けない個人的なことも伝えることができるので、《ひよどりママ》のプライベートもだいぶ知るようになった。彼女も非協力的な夫にたいして不満を持っているようで、エレナに共感してくれていた。顔も名前も知らない相手。だからこそ、言えることもある。お互いのフラストレーションを吐き出し合うようになり、エレナは心を開きつつあった。
『ハイスペってこともないけれど。世間では難関と言われる大学に合格するために勉強したことや夢を叶えるためにオーディションみたいなものを受けて勝ち取ったこと、高倍率な会社に入社できたこと、そういうことも全部、ただのラッキーだと言われたようで悔しくて』
キャスターになることは、子供の頃からの夢だった。日の出テレビの学生キャスターからキー局のアナウンサーになると、かなりの確率で報道を任せられていると知り、そのためにアナウンス学校に通い、英語も勉強した。大学二年の時にTOEICを900点以上とれるようになっていた。300倍という倍率で学生キャスターを摑み取り、ニュースをくまなくチェックし、現場での実績を積んだ。就職活動でも頑張って、キー局三社から内定をもらったすえ、お世話になっていた日の出テレビを選んだ。女子アナといえば華やかさばかりが注目されがちな職業だが、いまの自分がメディアで活躍できているのは、地道な努力の裏付けがあるからこそだと自負している。
また手の中でスマホが震えた。《ひよどりママ》からだ。
『オーディションのようなもの? すごい! もしかしてアマディスさん、アナウンサーとか?』
ドキッとした。この人、けっこう鋭い。うっかり情報を与えすぎてしまったのかもしれない。
『まさかそんなわけないよ。オーディションなんて大袈裟に書いちゃった』
最後に汗のマークをつけてすぐに送ると、すぐに返信があった。
『アマディスさんって才色兼備!』
エレナの胸がざわついた。《ひよどりママ》はいい人に違いない。でも、油断しすぎていた。このあたりで一線を引くべきだろう。
『全然そんなことないんです。そろそろ夕飯作らないと! 気にしてくれてありがとうございました』
最後ににっこり笑顔のマークをつけて送ると、スマホを食卓に置いた。すぐにスマホが震えたが、無視した。
その時だった。
「お母さん! 見て!」
類がキッチンに駆け込んできた。
「どうしたの?」
「麻見谷中の過去問の算数、最低合格点を超えた! 三年前の問題!」
「すごい! やったね!」
「九月で最低合格点を超えるのはすごいって、先生が」
「本当にすごいよ! 類、頑張ってるもんね」
「うん。ありがと。嬉しくて言いに来ただけ」
そう言うと、類はまた先生のいる部屋に戻った。九月に入って、類は広尾ゼミナールの看板である麻見谷中学校特訓コースに入った。毎週日曜日の午後一時から午後八時という長時間、麻見谷中学校に絞った対策を受講していて、その効果が出ているのかもしれない。
エレナはまたスマホを手にし、Xを開いてテキストを打った。
──麻見谷の最低合格点クリア!
投稿してまもなく、いいね! がたくさん付いた。同時に、スマホが短く震えた。そして、すぐにたて続けに短く震えた。ダイレクトメールで、やっぱり《ひよどりママ》からだった。 何通も届いていた。未読の一番上は、さっき届いていると知っていながら無視したものだ。
『あのね、じつはあなたが誰なのかわかったかもしれない』
うん? どういうことだろう。
連続で送られたダイレクトメールを開く。
『麻見谷中の最低合格点をクリアしたの?』
『本当に? うちの息子でもまだなのに?』
『本当かどうかわからないけれど、センシティブな時期に、そういう投稿は控えたほうがいいんじゃない?』
読んでいるうちに、また新しいものが連続で届いた。
『さっき書いたけれど、あなたが誰なのかわかったと思うの』
えっ?
『あなた、尾藤エレナさんじゃない?』
エレナは思わずスマホを食卓の上に放り投げた。
噓でしょう!?
スマホが短く震え、おそるおそるダイレクトメールを開く。
『あなたが投稿した画像とテレビで見た淡田哲次さんの家が似ているの。調べたら尾藤エレナさんって駒沢公園の近くに住んでいるのよね。あなたが犬の散歩をさせているのも駒沢公園でしょう』
どうしよう。身バレしている。
とにかく否定しなくては。だけど……怖い。
ストーカーされた時の恐怖が一気に蘇り、エレナは心臓を両手で押さえた。
(第二十一話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年9月号掲載時のものです。
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