【デザイナー・芦田多恵さん】の人生が動き始めた「51歳での宣言」とは

皇室や政財界、芸能界をはじめ多くの顧客を持つ「タエ アシダ」のデザイナーであり、「ジュン アシダ」のクリエイティブディレクターも務める芦田多恵さん。加圧トレーニングを始めてから体だけでなく心も変わり、51歳で家族にある宣言をしてから、人生が動き始めたとか。

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芦田多恵
お話を伺ったのは……
ファッションデザイナー・芦田多恵さん(60歳)

《Profile》
’64年東京生まれ。’91年にコレクションデビューし、’18年に父である故・芦田淳より「ジュン アシダ」を引き継ぎ、クリエイティブディレクターに就任。ブランドレガシーはそのままに、時代の空気を纏ったモダンなコレクションを毎シーズン発表。’21年にデビュー30周年、’23年にメゾン創立60周年を迎えた。令和6年度文化庁長官特別表彰を受賞。

加圧トレーニングを機に体だけでなく心も変化

長女を30歳、長男を35歳で出産。子どもたちは5歳半離れているので、長女の小学校入学時は長男はまだ幼稚園に上がる前。手をかけるところが全然違うんです。仕事も多忙で、常に長女、長男、仕事と脳みそが3層に分かれて同時進行していました。実家は近くですが、母も仕事をしていたので常には頼れず、平日はシッターさんにお願いしました。そんなときは、子どもを寝かしつけたあとに離乳食を作り、シッターさんにわかりやすいよう分類して冷蔵庫へ。その準備にもかなり時間がかかる。年2回のコレクションの日が子どもの運動会と重なってしまったときなどは、リハーサル終了後に慌てて学校に応援に行き、子どもの競技が終わったら、あとは母に託して会場にとんぼ返りしたことも。綱渡りの慌ただしい日々でした。

出産直後から、全部自分で何もかもするという気持ちが強く、シッターさんには最低限しか頼らなかったですね。でも、体を壊してしまいそうになったとき、夫から「人に任せられることは頼んで、母親にしかできないことをすればよいのでは」と言われ、頭を切り替えました。

そんな40代半ば、加圧トレーニングに出合いました。多忙で常に体調が悪かった私を見かねた友人の藤原紀香さんに半ば強制的にスタジオに連れて行かれたのがきっかけでした。3〜4回で逃げるつもりが、先生に「悪いことは言わないから通ってください」と説き伏せられました。後になって、あのまま放っておいたら確実に病気になると真剣に思われていたと知りました。当時は体がカチコチで血液循環が悪くなってしまっていたので、首と肩が固まり、上を向いてうがいができず、朝起きると足裏がむくんでしまっていました。初めて加圧ベルトを巻いた瞬間、鬱血して血管が浮き出てしまったほど。辛くてまったく動けず、腕を回すのも無理でしたが、1〜2回通うと驚くほど体がラクになったんです。すると、気持ちも軽くなって、マインドが変わって食事にも気をつけるようになり、体調がどんどん上向いていきました。

気づけば51歳になっていて、「え?私、50歳過ぎたの?」とパニックに。自分が思い描いていた50代の自分と今の自分があまりに違うことに気がついたんです。もっと洗練されていて、ライフスタイルが確立し、カッコいい大人の女性を想像していたのに、私のどこにそれがあるの? と真剣に悩みました。それまでの私は全然余裕がなく、自分のことを考える余地がまったくなかった。考えることは先のこと、あっちのこと、こっちのことばかり。それで家族に「私はこれから自分のために生きますから!」と宣言したんです。すると、夫も子どもたちもぽかんとして、拍子抜けするくらいに「へ〜、どうぞ」と。

とはいえ、今までがそういうマインドではなかったので、急に自分のために生きるって結構難しい。慣れるまでに時間はかかりましたが、まずはもっと仕事に重きを置いて、仕事の会食の予定も積極的に入れるようにしました。最近では子どものころ以来、久しぶりに乗馬を始めたり、車も、以前は夫と共用でしたが、自分専用の車を購入したり。自分のやりたいことを優先する方向にシフトすると、人生が変わり始めました。宣言するって大事です。本当に自分が楽しみ、自分に集中して生きることが当たり前になっていきました。遅まきながらですけど。

昨年、長男は25歳、長女は30歳に。人生で一番嬉しかった瞬間は子どもを産んだとき。一番大変だったことも子育てですね。娘は自分でも言っていますが、今も反抗期です(笑)。でも、就職してからは、母としての私でなく、仕事をする一人の女性という目で見てくれるようになりました。

夫婦それぞれが自分の人生を楽しんでいます

3歳年上の姉がいますが、デザイナーになる気はなく、両親もやらせる気がなく、小学生のころから私が後を継ぐことに迷いはありませんでした。その前提で中学卒業後にスイスに留学。その後はアメリカの芸術大学でデザインやアートを学びました。帰国後、なかなか就職先が決まらず、半年後に「ジュン アシダ」に入社。父が寛大で、いろいろな仕事をさせてくれたので、とても楽しかったですね。『ヴァンテーヌ』という女性誌の方からお声をかけていただき連載が始まると、「デビューもしていないのに連載していただくなんてとんでもない。次のシーズンにデビューしなさい」と言われ、27歳でコレクションデビューしました。デビューする気はまったくなかったのですが、「満を持してのデビューなんてものはない。きっかけがあるのだから、やってしまえばなんとかなる」と父。その一方で、両親はお見合いも強く勧めてきました。私は結婚する気などまったくなかったので、揉めてばかりいたころ、知人の紹介で夫と出会い、4カ月後に結婚しました。デビューからまだ2シーズン目の28歳。突然結婚式の招待状を受け取った友人たちはびっくり仰天していましたね。

夫はおべっかをまったく使わない人で、父に対してもはっきり言いたいことを言うタイプ。最初は両親も驚いていましたが、だからこそ信頼するようになり、会社を任せることになったようです。

仕事のパートナーでもある夫は、子育てにも協力的で、私が子どもの行事に参加できないときは行ってくれました。代わりにやってはくれても、自発的にするかといえばそうではなかったので……。「昭和」ですよねー(笑)。でも、妻は家で夫を待つ的なことを私にまったく期待しないし、私も夫に早く帰って来てほしいということもない。年を重ねるほど自己が確立されて、相手に合わせるって難しい。そんなとき「自分のために生きます!」宣言をして、以降はよりそれぞれの人生を楽しんでいるかな。一緒に旅行もしたり、仲もいいですよ。でも、それぞれ別のフィールドを持つことができているのがよかったのかなと思います。

気になる部分を隠すより出せば気持ちも前向きに

この仕事をしていると、ルックスが本当に美しい人によくお会いします。生まれつき容姿に恵まれた人でも、年齢を重ねてなお美しいのは、ものすごくストイックに努力されているからなんですね。それって素敵だなあと思います。人間、あきらめようと思えばあきらめるのは簡単じゃないですか。もう仕方ない、私は私でいいのよって。それで気になるところを隠そうとする人のなんと多いことか。首のシワが気になるからタートルしか着ない、腕が太いから長袖しか着ないとか。その気持ちもわかりますし、私も自信をもって見せられるようなものではありません。でも、そういう方には「気になるところは出しましょう!」とお伝えするんです。隠し始めたら、そこをキレイにしようではなく、どうしたら隠せるか、その部分だけにフォーカスしてしまい、全体が見えなくなります。大事なのは全体のバランス。欧米の年配の女性たちは、シワシワでも露出して堂々としていますよね。隠すより、バンッて出してしまったほうが、マインドも前向きに変わると思います。

コロナ禍を機に、朝15分間瞑想をするようになりました。それが亡き父との語らいの時間にもなっています。最初の1カ月間は初心者向けの瞑想アプリで学び、それ以降は自分でするようになりましたが、いまだに無にはなれません。邪念ばかりですから(笑)。でも、瞑想しなければ自分の邪念には気づけませんでした。自分が何に囚われているのかがわかると、実は意外にくだらないことだったことに気づきます。人間って、過去の後悔と未来の心配のことしかしていないそうで、私なんてまさにずっとそうでした。心配事って8割は起きないのに心配をし、それに囚われていた。それって今を生きてないということ。そう気づいてから、邪念も簡単に断ち切れるようになり、すごくラクになりました。

同世代の友人と集まると、一緒に老人ホームに入ろうみたいな話になるのですが、そういう話題は好きではなくて。今は時代が変わり、医療もテクノロジーも進化して、自分の想像もつかない未来がきっと待っているはず。何歳になったらとか先のことは考えず、日々を積み重ねていきたいです。

40代のころの私

49歳のころ、コレクション会場で。友人の藤原紀香さんと元宝塚トップスターの稔幸さんと。30〜40代は多忙で、自分のことなどまったくケアできていなかったけれど、加圧トレーニングを始めて体調が回復し始めたこのころから、メイクやスキンケアなどにも気を使うようになりました。

芦田多恵さんが40代に伝えたいこと

どんなに疲れていても、脚をマッサージする、ボディクリームを塗るなど、それぞれにとって必要な美容を毎日欠かさず続ける。その積み重ねが、10年後に大きな意味を持つはずです。

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2025年『美ST』5月号掲載
撮影/枦木 功(nomadica) ヘア・メイク/室岡洋希 取材・文/安田真里

美ST