林 真理子さんの小説がきっかけで広報・PRの世界へ|株式会社フロントステージ 代表取締役・千田 絵美さん

女性としてこれからのキャリアについて悩むSTORY世代。’22年に女性活躍推進法が改定されてからはますます女性の活躍が期待され始め、徐々に女性管理職比率も高くなってきています。個人として評価され活躍される女性リーダーの方々には、キャリアの狭間で自身の生き方を見つめ、可能性を信じてチャレンジする姿がありました。今回ご登場いただくのは、教師から一転、小説に登場するPRという職種に魅了されこの世界に飛び込んだ、企業の広報・PRを手がける株式会社フロントステージの代表の千田絵美さんです。(全3回の1回目)

千田絵美さん(43歳)
株式会社フロントステージ 代表取締役

山口県出身。大学卒業後、小学校教師、広告営業を経て、2006年に株式会社出前館に広報・社長秘書担当として入社。2008年に株式会社ドクターシーラボの広報・PR担当、2013年にSTORES株式会社にPRマネージャーとして入社。2016年9月、広報・PRエージェンシーの株式会社フロントステージを設立。PR戦略や企画立案をはじめ、プレスリリース作成から撮影立ち会いまで、企業外の広報担当としての役割を行う。プライベートでは13歳の子どもの母親。


 

「やっぱり教師は向いていない」広報・PRの仕事に就くため、いざ東京へ!

STORY編集部(以下同)――大学卒業後は、幼い頃からの夢を叶えて教師になったと伺いました。

小学生の頃、当時教えてくれた先生が大好きで、将来の夢はずっと「学校の先生」。念願叶い教師になったのですが、実際に働き始めると、すぐに自分には向いていないと気付きました。

――すぐにですか? どのあたりが向いていないと感じたのでしょうか?

教育や育てるという部分にはすごく興味があり、そこは変わらないのですが、決められた時間に決められた場所で、毎日同じことをするというスタイルが向いていないんだなと思いました。

もう一つは、当時50代くらいの女性の先生の働く姿を見て、30年後をなんとなく想像できたとき、ワクワクしなくなってしまったんですよね。これは今になってわかったことなんですが、先々まで見通せるようなものに対して、興味が湧いてこないタイプのようです(笑)。

――その後は、どのようなお仕事を?

教師が向いていないとわかり、ビジネス雑誌などを読んでいたら「営業がすべての仕事の基礎になる」とあったので、まずは営業職に就きました。筋トレのような感じで、鍛えておけばやりたいことがみつかったときに、役に立つだろうと思って。そんなとき、広報やPRという職種を知る出合いがあったのです。

――どんな出合いでしょう?

実は、大好きな林真理子さんの『コスメティック』という小説なんです。主人公が化粧品のPRの仕事をしているんですけど、読んだときに「この仕事をやりたい!」と思ったのがきっかけです。

調べてみると、当時メディアの9割が東京にあるということがわかり、広報やPRの仕事をするために上京を決意しました。

――仕事も決まっていない状態で上京することに不安はなかったですか?

不安よりも、やりたいという気持ちが勝っていたんだと思います。幸い上京後3週間で、出前館の広報職として採用してもらい、2年半ほど勤務。その後、大企業の広報職を経験するためドクターシーラボで働き、次にいつか起業するときのために経営も学びたいと考え、スタートアップ企業で働かせてもらいました。

広報職デビューとなった出前館勤務時代。

――起業というのは、昔から考えていたのですか?

教師という職業じゃないのであれば、いつか起業したいということは大学生くらいのときから思っていました。でも、それを目標としてしっかり見据えるようになった理由のひとつとして、出産があると思います。それまでは仕事がとにかく大好きだったんですが、ガラッと気持ちが変わってしまったんですよね。

――仕事よりも、ママ業を優先したくなったということでしょうか?

出産する前は“育児休暇から復帰したら、これまで通り仕事もしっかりやりたい”と思っていました。でも、いざ出産してみたら娘が可愛すぎて離れたくない(笑)。もちろん当時勤務していたドクターシーラボに予定通り復職しましたが、今後の働き方について考えるきっかけになりました。

娘さんが1歳のとき。

(中編に続く)

撮影/BOCO 取材/篠原亜由美

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