別居するその前夜。誰かに背中を押されたかのように、口からこぼれ落ちた言葉とは
結婚してから、暮らしてから相手について分かることって意外と沢山あります。どのくらい許しがたければ離婚すべき? 今月は迷いに迷って一つの決断を下した40代のお話です。
▼あわせて読みたい
浮気はうすうす感じていたんですが、知らないマンションの固定資産税のお知らせにおののきました
40代の夫婦生活
◯ 話してくれたのは...川上麻以子さん(仮名)
兵庫県生まれ。幼少期をシンガポールで過ごす。自由な校風の中高一貫校に通い、昔も今も自由で平和主義。大学卒業後は化粧品メーカーに就職し、32歳で同じ業界の中で転職。趣味は旅行。女優の川上麻衣子さん似の美人。
夫 大阪生まれ。大学卒業後商社に勤務し、M&Aを受けながら、ステップアップをするエリート会社員。穏やかでまじめな人柄。趣味は読書。食べ物の好き嫌いが多いのが玉にきず。
先日銀婚式を迎えました。その日は私が海外出張でうっかり忘れていたのですが、夫から「よく頑張りました」とメールが来て、つくづく感慨深げに25年を振り返る今日この頃です。
20代の頃はサーファーや遊び人のボーイフレンドが多く、中にはプロポーズされたこともあったのですが、「結婚の相手じゃないわね」と何度となく両親に反対されました。厳しい両親ではなかったのですが、人生の節目には釘を刺され、そこを乗り越えてという強い意志もなく、結婚もしたかったので、お見合いで選ぶと心を決め、写真をばらまいてもらいました。
まだ若かったし、すぐに3名の候補者の写真が届きました。その中の1人が夫。熊さんみたいで、日に焼けて海の香りがしたんですね。最初からこの人がいいわ、と乗り気で会い、自分を全部見てもらいたいと繕うことなく、さらけ出しました。真面目で優しい人柄で経済力もあるし、また、彼の仕事場が父の会社の道を挟んで目の前という偶然さにも縁を感じ、とんとん拍子に話は進み、4カ月後に結婚しました。
私は25歳、夫は10歳年上で35歳。婚約中は、式場や住む場所を決めるなど、デートと言うよりミーティング。ロマンティックなことはほぼなく、1度だけお泊まりをして、ベッドを共にしたのですが、彼が最後までできなかったんです。でも疲れているのかと重く考えませんでした。
しかし、結婚生活がはじまってからも、至るまでのプロセスは満足なのに、最後ができないのは変わらず、不安が過りました。私に問題かとも思ったし、夫にも病院に行くことを勧めたんですが拒絶され、そうすると何もできないまま、誤魔化しながら時間が過ぎていきました。
同時に食生活も全く合わなかったんです。魚介が大好きな私に対して、夫は魚介が全部ダメ。好き嫌いが多いことは知っていましたが、ここまでダメだとは予想外。これが相当のストレスになりました。何とか食べてもらおうとメニューを変えて10年くらいは頑張りましたが、夫は給食で居残りさせられている子供のようで、勧めるのは本当に可哀想で無理強いは止め、別々のメニューを作るようにしていました。また10歳の年の差から相当なジェネレーションギャップもありました。性的な問題で病院を拒否したのも、世代的な恥ずかしさがあったのかもしれません。
いろいろ問題はありましたが、何といっても頭を悩ませたのが性生活。何年たっても状況は変わらず、思い切って母に相談してみたんです。
「どう思う?」
「困ったわねえ。離婚の選択もあるわね。でもその前の段階はどうなの?」
「それはばっちりよ」
「それなら良しとしたほうがいいわね」と母としてより、女性として意見を言ってくれました。
当時、私は会社でも重要な仕事を任されていたし、夫婦の関係だけが人生を占めているわけじゃなかったので違う道を考えることは止めました。何より夫のパーソナリティを尊敬していました。
ところが40歳になったとき過労から肺気胸という肺がつぶれる病気を発病し、手術をしました。麻酔が覚めていくとき、ふっといろんなことが頭を過りました。仕事もやったし、旅行にも行った、満足しているけど1個だけ満足してない部分は性だと思ったんです。こんな場面で出てきて、生身の人間ってえげつないなと自分が恥ずかしいですが、いちばんリラックスした状態だったのだと思います。
人は思ったら行動につながると言いますが、体が回復して退院してから悶々と悩んでいたときに、高校の同窓会があり、そこで久しぶりに再会した同級生と恋に落ちてしまったのです。相手にも家庭があり、まさに秘密の関係。月に1度会う程度でしたが、体の相性はばっちりでした。神が与えてくれたギフトなのかと勝手に良いように解釈していました。
夫と別れようという気持ちはなかったので、気づかれないように恋を続けていました。ところがある日夫と痴話げんかになったとき、「最近Mちゃんの態度がおかしいけど、そんなに僕のことが嫌いなら別れよう」と離婚を切り出されたのです。「俺もいろいろ我慢してきたけど、Mちゃんも我慢してきたと思うから、もう我慢しなくていい」と。
それまでそんな話になったことは一度もなかったので「ちょっと待って。突然すぎない? 我慢はしてきたけど、離婚とは私は思わない」と言っても、心が決まっているようでした。私が恋愛していることには気づいてないようだし、一言も言いませんが、知らず知らずのうちに彼に向ける態度が冷たかったのでしょう。最後は離婚の前に別居をするという形で話が落ち着いたものの、「自分の気持ちは変わらないからね」と釘を刺されました。今住んでいるマンションは私に、夫は車で1時間の実家に引っ越すことになりました。勝手なもので、恋愛していながらも夫と別れる気にはなれず、複雑な心境でした。
そして夫が家を出る前日、寝室のベッドの中で寝る前に、「明日何時に出るの?」と言うと「4時頃かな」と。「おやすみ」と電気を消した後、心の中で、もし今行かないでと言ったら夫がどう返してくるだろうともやもや考えていたら、言うつもりはなかったのに、誰かにぽこっと背中を押されたように「やっぱり行かないで」という言葉が口から出てしまったのです。3秒ほど沈黙があり、「じゃあ、出て行かないよ」と。へーっとびっくりしましたが、呆気なく別居騒動は終わりました。
と同時に、この言葉を待っていたんだ、「離婚」を言い出したものの後に引けなかったんだと思いました。気が抜けてそのままグーグー寝て、翌朝も「おはよう」で元の生活に戻りました。その後も話し合いをしたわけではありませんが、それをきっかけにお互い無理をしない姿勢で、ストレスだった食事も別に作らず、お互い好きなものを好きな時に食べるようにしたり、我慢して相手に合わすことを意識してやめるようにしました。
もちろん彼とも別れました。そして性的な問題も、それまで道路側にあった寝室を、それも夫が上手くいかない1つの理由かなと思い、マンションをリフォーム。普段の生活の中でも意識的にハグしたり、ひっついたりスキンシップも取りあうなど、改善できるところは改善しました。とはいえ性生活は変わりませんが、努力をしているという事実がお互いの関係を和らげました。
これまで子供を欲しいとは思っていなかったんですが、その時点で子供が欲しくなり、夫に相談しましたが夫は50歳。経済的な自信がないと断られ、気持ちに区切りが付きました。それならそれでいいと思えました。時々夫が冗談で言います。「Mちゃんに耐えられる人はほかにいないね」って。本当にその通りだと思います。好きなことを優先して好きなことをやっている私。知らず知らずの間に、夫に感謝の気持ちが芽生え、何よりパートナーとして人間として夫を尊敬している自分に気が付きました。
ベッドでの一言から9年がたち、今思うと本当にあの一言を言えてよかった。言ってなかったら間違いなく離婚していたし、違う人生を送っていたと思います。そういう道もあったけれど、私は今、夫と一緒でよかったと心から思えるんです。
その後義母が亡くなり、空き家になった実家の一室をリフォームして週末をそこで過ごすことに。思いがけなく光溢れる明るい部屋になり、そこにいると幸せを実感できるんですよね。こんな家が持てたことも、夫婦が仲良くなれることも10年前は想像すらしていませんでした。
今別れそうになっていたり、こじれている友人に言うのは、ちょっと頑張って踏みとどまってほしいと言うこと。誰しも、いろんな想像していないことが人生には起こり、人も状況も変わります。そうなったとき、根本的なことは何も変わっていなくても、人の気持ちは変わるから。私たち夫婦もまだまだこれから。後悔しない人生を歩みたいですね。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2016年掲載時のものです。
おすすめ記事はこちら
・“セックスレス漫画”から紐解く「あるある悩みQ&A」・女医&ラブアドバイザーから「セックスレス」の心強いアドバイス
・詩人・伊藤比呂美さん 40代のトンネルを抜けた「姉御メンター」たちの金言Vol.5