作家・山内マリコさんが考える「今の時代の、心が豊かな女性」とは?

観客のいない、自分だけの楽しみ

人は多かれ少なかれ、若いときに観たり読んだりしたもので価値観が作られていく。まったくのゼロからいまの自分になったわけではなくて、小説でもエッセイでも、「ああそうだなぁ、本当にそのとおりだ」と深く納得したことをつぎはぎして、パッチワークしてできたのが自分という感じ。年齢や立場で考え方が変わることもあるけれど、若いころに作った〝地〞の部分はあんまり変わらない。そういうわけで、「カジュアルだけど心がリッチな女性」で思い浮かんだのは、二十代も後半にさしかかったころに読んだ、田辺聖子の小説の主人公、乃里子だった。独身時代を描く『言い寄る』、金持ち男と結婚した『私的生活』、そこから解放された日々を送る『苺をつぶしながら』の三部作。『言い寄る』では自分らしく働き自分らしく暮らしていた乃里子が、結婚によって上流階級へ社会移動した『私的生活』に、贅沢についての感慨を記したこんなくだりがある。乃里子は、ギリシャへの新婚旅行で買った大きな海綿に、菫の匂いのする帆立貝の形をした石鹸を泡立て、体を洗うときにいちばん、「贅沢っていいもんだ」と思う。その石鹸はデパートの外商に言って持ってこさせたものだし、三ダースという驚異の爆買いをしているところからも、乃里子は明らかに富裕層の生活をしている。そして彼女は、高価な服を着ているときも贅沢だとは思うけれど、そういうのは自分だけじゃなく、人に見せびらかして楽しむ要素も含んでいると分析する。つまり目に見えて贅沢なものを楽しむには、「観客が要る」のだ。一方、バスルームで体を洗っているときに観客はいない。大きな海綿も馥郁たる石鹸も、高価には違いない。けれど、それは誰に見せることもない自分だけの楽しみだ。乃里子は「それこそ、充足というものだった。真の贅沢をたっぷり享受している、という心持にさせてくれる」とつぶやく。人に見せびらかすわけじゃないものに、お金をかけることこそ、真の贅沢。それを知る乃里子は実のところ、「むき出しの包装紙なしで飛びまわってるのが好きな女の子」だった。男の子みたいな髪に、夏も冬もジーパンで、あんまりお化粧もしない。香水はつけ忘れるし、アクセサリーもひやっとするから苦手。この、飾らないくせにものごとの本質はちゃんと見抜き、自分の流儀で生きている/生きようとするキャラクターに、二十代だったわたしはすっかり魅了された。こうありたいとつくづく思った。海綿と帆立貝の石鹸はこのあとも、贅沢を象徴するモチーフとして登場するけれど、最後には乃里子によって否定されることになる。どれだけその贅沢を愛していたとしても、これが贅沢ってもんだと男に示され、男に与えられると、「急に色あせてしまうのだった。少なくとも私の場合」――。

見せびらかすわけでもないものにお金をかけること

人に与えられた贅沢は急に色あせることがある

この言葉ひとつとっても、乃里子はフェミニストだと思う。乃里子三部作が書かれたのは一九七〇年代の中盤から八〇年代のはじめ。すでに先鋭的な女性の間でウーマンリブ運動は起こっていたものの、まだまだフェミニズムは形成の途中、第一人者たちが手探りで研究していた。そして多くの女性は旧来的な価値感のもと、結婚して家庭に入り専業主婦になるという人生を送っていた。作者の田辺聖子自身にその自覚はなかったかもしれないけれど、いきいきと働く女性を肯定的に描く時点で彼女はフェミニストだし、乃里子の核の部分も明らかにそうなのだ。手に職のある自立したアラサー女性ながら、乃里子は片思いをこじらせた乙女でもあった。そして片思いの相手があろうことか親友を好きになり、二人は結婚してしまう。大失恋だ。古来このシチュエーションに置かれた女性は嫉妬に狂うのが物語の定番なのだけど、乃里子の場合は逆。むしろ自分を苦しめているのは、片思いしている相手への自分の執着なんだと悟る。さらにその執着から解放されたいあまり、憎みもするのだ。親友ではなく、自分が愛した男を。「私は、女の独身貴族はいいけど、男の独身貴族はあんまり好きじゃない」「あたし、おくさんや主婦というもの、諸悪の根源みたいで、なりたくなかったんですけど」なんてセリフは、いま読んでもなかなかにラジカルだ。乃里子は、長らく女の専売特許とされてきたネガティブな感情――ねたみ・そねみ・ひがみ――と無縁だ。なぜかというと、乃里子は「選ばれる」側でないから。愛される、好かれる、大事にされる、モテる、そういった受け身の存在ではなく、自分から「これが好き」「こうしたい」と言って行動できる、「選ぶ」側の人間だからだ。男と女は結婚をはさんで、選ぶ側と選ばれる側に分けられてしまう。そして選ばれる側の人間は、必然的に劣位に立たされる。劣位同士、ティアラを奪い合う形でギスギスしたり、やたら人と自分を比べたり、つまらない小競り合いをすることが、長らく女性に課せられてきた女同士のドロドロだ。乃里子のなかで女の独身貴族(田辺作品ではよく〝ハイミス〞と呼ばれる)は、自分で自分の舟を漕ぐ主体的な女性だ。反対に奥さんは、他の女が自分の席を奪いに来やしないかと、いつもビクビク、若い女を敵視したり、同性に対して刺々しい態度の、保身的な女性ということ。どちらが良い悪いの話ではなく、乃里子は前者である自分が好きなのだ。それってすごく、フェミニズム的だ。そういう精神性を持つ乃里子のような女性がリッチじゃなくてなにがリッチなのだろうと、わたしはいまも思っている。

Mariko Yamauchi
1980年生まれ。2012年『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫)でデビュー。近著にJJの連載に大幅加筆した『TheYoungWomen’s Handvook~女の子、どう生きる?~』(光文社)がある。『あのこは貴族』(集英社文庫)が2021年2月映画公開予定。CLASSY.の連載をまとめた『一心同体だった』の刊行を控えている。

文/山内マリコ 撮影/水野美隆(zecca) モデル/林田岬優 ヘア/Eiji Sato(SIGNO) スタイリング/斉藤美恵