塾のクラス分けランクの上下に踊らされる母たち。夫とのケンカも…【中学受験小説】

【前回まで】クリニックの休診日、木曜の夕方に頻繁に出かけていく夫・翔一に不信感をいだいた玲子は、娘・莉愛の使わなくなった携帯を翔一の車に忍ばせる。一方、美典は娘・沙優が外泊し夫婦二人の時間を過ごす中、夫への愛がときめきではなく穏やかな家族愛へと変わったのを感じる。そんな折、スマホのGPS機能から夫の浮気を確信した玲子から着信が入る……。

▼前話はこちら
悩みは中受だけじゃなく、夫の浮気の疑いも確信に変わって…【中学受験小説】

全話表示


【第十話】 小5・11月

店長の田村香代がカウンターの後ろの部屋から顔を出し、小袋に入ったものをこちらに見せる。

「チャージしよう」
「いいですね」

客が来ない合間、だいたい三時から四時のあいだが多いのだが、業者から試供品でもらうお菓子を食べられるのがこの仕事のいいところだ。カウンターの後ろに二、三人が腰掛けられるベンチが置かれており、美典と香代は並んで座る。今日はイタリアの焼き菓子。商品説明を読むと、ヘーゼルナッツをカラメリゼしたものを使って焼き上げているらしい。

「おいしい。日持ちもするからいいわ。仕入れてみようかな」

香代は商品の説明が書かれている紙を眺める。

「店頭にナッツの焼き菓子があるから、かぶっちゃうかも。いま仕入れているあのお菓子、あまり出ないので、あちらをやめて、こっちにしてもいいかもですね」

美典はお菓子を食べながら、深く考えずに意見する。あまり出ないというのも何となくの記憶で、データを確認しているわけでもない。だが、たしかにそうね、と香代は美典の思いつきに何度も頷き、ふと何かを思い出したように、ところで、と美典の顔を見た。

「美典ちゃんって、ここでパートをはじめて二年くらいだっけ?」

そう訊かれて、いえいえ、そんなには、と返して美典は指折り数える。

「一年半ですね」
「そんなもの? もう三年くらい働いていそうなのに」

香代の言葉に、美典は笑った。この街に引っ越してきて、すぐにバイト先を探しはじめた。この店のドアに貼られていたバイト募集の紙を見て話を聞いてみたら、家から近くて勤務時間もちょうど良さそうなのではじめてみたわけだが、いまのところ順調に続けられている。

「前は、システムエンジニアをやっていたんだっけ?」
「そうです。高校を卒業してシステム系の勉強をして入社したのが、ベンチャーのIT企業で」
「どうしてうちを選んでくれたの? 接客の仕事なんて畑違いじゃない」
「育休の後も続けていたんですけど、外勤に疲れちゃったというか、全然違うことをしたくなったというか」

香代には言いにくいが、沙優の受験に合わせて引っ越したので、あの子が中学に上がるまでは自宅から近くて時間の融通がきく、緩いパートタイムでそこそこ稼げればいいと考えて選んだ。

「そういうこと。たしか旦那さんもIT系のお仕事だって言っていたものね。ご両親とも理系ってことは、娘ちゃんもそうなるのかな」
「算数が苦手で国語が得意なんですよね。そうだ、ちょっと自慢なんですけど…… 塾のクラスが上がったんです。五つあるうちの上から二番目のクラスに」
「あら、おめでとう! いいわね、優秀なお嬢さんで。うちの娘も中学受験させたけど、まったく思いどおりにはいかなかった。よくできるお子さんの親を羨んだものよ。行きたい学校は決まっているの?」
「ないことはないんですけど…… 目指せるかどうかは別ですよね。志望校選びって難しいです」
「いろいろ考えるのが親の仕事だけど、ご縁があればあるし、なければないし。ようは、なるようにしかならないのよ。人生なんて計画どおりにいかないもの」

香代はそう言って笑った。娘さんが二十歳になるタイミングで離婚して、慰謝料を元手にこの店をはじめたという香代がそう言うと説得力がある。

十七時に仕事を終えて店を出ると、小雨が降っていた。天気予報を見ていたので、自転車ではなく歩いてきて正解だった。雨のせいで真冬の寒さだ。

歩きながら、香代との会話を思い出す。なるようにしかならないか。とはいえ、考えてしまうのが親心だ。沙優、ちゃんと傘を持って出かけたのかな。今日から新しいクラスだから、浮かれて美典が書いたメモなんて見ていないかもしれない。

啓明セミナーは一番下がAクラスで、B、C、D、と上がって、一番上がEクラス。沙優はAクラスで入塾し、少しずつ上がって、長らく真ん中のCクラスをキープしていた。落ちることも上がることもないまま、Dへの壁は高く感じられていた。なので、今回の結果を沙優はもちろん美典も嬉しくてたまらなかった。クラスが上がったことがわかり、あまりの嬉しさにエレナにメッセージで報告したくらいだ。エレナもとても喜んでくれた。ただ類はテストの日に体調が思わしくなかったようで、はじめて一番上のクラスから下がってしまったのだとも書いてあった。

沙優はあの優秀な類と同じクラスで授業を受けているんだわ。美典の顔はにやけてしまう。もっと誰かに聞いてもらいたい。子供のことを心おきなく自慢できるのは身内くらいだ。傘を首ではさんでスマホをバッグから取り出し、美典は弟の夏樹に電話をかけた。

「おう、どうした?」
「いま、暇してる?」
「暇はしてない、仕事中だし。在宅だけど」
「だったら話せるよね? 沙優が塾のクラス上がったんだ。上から二番目のクラスに」
「へえ、頑張ってんじゃん」
「国語の偏差値、65だったの」
「姉ちゃんと違って国語ができるんだな」
「うるさいな。まあ、そうなんだけど。ちょっと前に夏樹が勧めてくれた自由が丘国際学院の文化祭にも行ってきたのよ。生徒さんたちがみんないきいきしていて、素敵だった。わたしが通いたくなっちゃった」
「進学実績が伸びていることがクローズアップされがちだけど、ただ国公立や医学部を目指せっていう感じじゃないのがいいんだよ。グローバル教育に力を入れているから海外大はもちろんだけど、音大や芸大に進む子もけっこういるみたいで」
「夏樹からそう聞いていたから、わたしもいろいろ調べたの。人気なのも納得ね。それにしても、あんた、結婚もしていないのに、本当に詳しいわよね」
「受験業界って面白いじゃん。偏差値っていうヒエラルキーのある世界って、外から眺めているぶんには楽しいんだよ」
「外から眺めているぶんにはね…… 中にいると大変だけど。でさ、沙優は目指せると思う?」
「自由が丘国際学院? いいんじゃないの」
「軽く言わないでよ。あの子の受験にはお金も時間もかかっているんだから、ベストな結果を出せるようにしたいの」
「じゃあ、真面目に言うと、俺が塾の講師のバイトをしていて感じたのは、中学受験って向き不向きがあるんだよ。まだ小学生だろう。正直、精神的に幼い子にはつらいだけの体験になってしまうことがある。そういう意味で、沙優はしっかりしているし、受験には向いていると思う」
「なるほど」
「向いている子の中でも、諦めない子っていうのは強い」
「ふうん、諦めない子?」
「諦めないためには、本人がその学校に入りたいと強く希望していることが何よりも大事なんだよ。つまり、沙優がどこまでその学校に行きたいと思うかにかかってるんじゃん?」
「沙優自身の希望ね」
「姉ちゃんが通いたくなってもしょうがないんだよ……あっ、やべ。オンラインミーティングがはじまるわ」
「そっか、ごめんね。また連絡する」

早口に言って、美典は通話を切った。会話に夢中になってしまいバッグがずいぶんと雨に濡れてしまっていた。バッグの中のハンドタオルを探しながら、夏樹との会話を反芻する。いまのところ沙優が好感を持っているのは渓星大学第一中学校のようだった。たしかにいい学校だったし、文化祭巡りをするまでは、美典も渓星中が沙優に合っているように思えていた。

「でもね……」

美典は一人呟く。せっかく成績が伸びているのだから、上を目指してほしいと思ってしまう。

鍵を閉める音がした。ドアノブを引っ張ってみるも、開かない。

「類! 開けなさいってば!」

ドアを強めに三回ノックし、エレナは声を荒らげた。返事がない。はあ、と低い声をともなったため息が出てしまう。温厚な性格の息子だが、臍を曲げると長いのだった。ベッドに突っ伏して悔し泣きしている姿が目に浮かぶ。

「何、どうしたんだよ?」

仕事部屋から淡田が出てきて、エレナは驚く。夫がいたことをすっかり忘れていた。平日の夕方に家にいることなんてあまりないのに、こういうところを見られるなんてついていない。

「ごめん、なんでもないから」
「なんでもないってことはないだろう。勉強のこと?」
「あの子、ずっと塾で一番上のクラスだったのに、この間のテストで一つ落ちちゃったのよ。それで、小言を言ったら追い出されちゃって」

本当のところ、小言では済まなかった。沙優のことを引き合いに出し、かなり執拗に責めた。四年生で一番下のクラスから入った沙優がどんどん成績を伸ばしてきて、ついに上から二番目のクラスまで上がってきた。沙優だけじゃない。これまでのんびりしていた子たちも、いよいよ本気を出してくるようになる。余裕で構えていたら抜かされていくだろう。もっと危機感を持ってほしくて、いつになく厳しい口調で叱責したのだ。

「類、鍵閉めて引きこもるなんて、男らしくないぞ」

淡田がドアの向こうに声をかけるので、エレナは思わず顔をしかめた。

「ちょっと、男らしさを押し付けるような言い方はやめてよ」

エレナが注意すると、はあ? と淡田が眉間に皺を寄せる。

「男らしさのどこがいけないんだ。君こそ、家の中までニュースの原稿みたいなことを言わないでくれよ」

ジェンダーレスが叫ばれているこの時代に……と反論しかけたが、エレナは躊躇する。類が聞き耳を立てていることは間違いない。夫婦の言い合いを類に聞かせたくなかった。

「向こうで話しましょう」

そう言って、エレナは夫をリビングに誘導した。

「君は声が通るから、怒鳴ると響くんだよ」
「だから、ごめんなさいってば」
「そんなに怒るくらいなら、中学受験なんてしなくてもいいじゃん。公立に進んで、高校から都立のトップを狙えばいいんじゃねえの。母親がマネージャーみたいに付き添っていたんじゃ、ハングリーな男にならんだろう」
「だから、そういう言い方」
「何が問題なんだよ」

淡田のこういう保守的な考え方を、これまでも受け入れがたく感じていた。憤りを覚えるものの、話がこじれることは目に見えているので、エレナは言いたいことを飲み込んだ。

「県立のトップ校から塾にも通わないで東大に現役で入ったあなたみたいな進路は立派よ。類だって、やればできると思うわ。ただ、せっかく東京に住んでいて、経済的にも余裕があるんだから、あらゆる選択肢を与えてあげてもいいじゃない。それに高校受験のない六年間をすごして、やりたいことを打ち込ませてあげたいのよ」
「本人がやりたいと言うなら俺は何も言わないけど、ちょっと成績が落ちたくらいで投げやりな態度を取るくらいならやめればいいって言ってるんだよ。安くはない塾代を払うのも馬鹿らしい」
「投げやりってほどじゃないわよ。たまにそういう気持ちになるでしょう。まだ十一歳なんだから」
「そんなことを言うなら、君もガミガミ言うなよ。ドアを叩いたり、あんなヒステリックな声を出されたりしたら、こっちまで嫌な気分になる。俺は母親から、あんな言い方をされたことなんてなかったからな」

淡々とした口調で、けれど追い詰めるように淡田は言う。この人の攻め方はいつもこうだ。取り乱したら負け。わかっているけれど、エレナは苛立ちを抑えきれなくなる。

「あなたの母親のことなんて知らないけど、人間なんだから、余裕をなくすことだってあるでしょう。ガミガミ言ったりメソメソしたりしながら、わたしと類は二人三脚で頑張っているの。何がいけない?」
「二人三脚はいいけど、君の背丈に類を合わせるようなことをしたくない。類は男子だから、下駄を履かせたくないんだよ。君はそれでよかったかもしれないけど」
「どういうこと?」

夫の言いたいことはわからず、エレナは聞き返した。

「君は恵まれた家庭環境の中で育って、とびきりの美人だ。born on third baseだろう。類にも、そういう優位性はあるかもしれないが、それを使うのがあいつのためになると思えない」

エレナは言葉を失う。つまりこの人は、わたしが楽をして生きてきたと言いたいのだろうか。

「そんなの……生まれた場所は選べないわ。逆差別よ」
「ほらな、君と話していると討論番組に出ているみたいに思えてくるんだよ」

これ以上、この人と話したくない。ダイニングの椅子に置いてあったバッグを手にして、エレナは家を出た。

「三塁に生まれた」と言われるなんて思ってもみなかった。マンションのエントランスを出て、公園に向かう道を歩きながら、エレナは思う。いや、違う。そう思われていると、どこかで気づいていた。あの人は、どこかでわたしをみくびっている。もっといえば、そんなわたしがかわいいのだとも思っている。

さっきまでの小雨は止んでいたが、薄暗い夕暮れの中を冷たい風が音を立てている。寒い。なのに、顔が熱くてたまらない。額に汗が滲んだ。エレナは立ち止まり、バッグの中のピルケースを探す。が、ない。更年期がつらくてレディースクリニックで処方してもらった薬だ。朝飲んだ後にキッチンに置きっぱなしにしたのか。取りに戻りたいけれど、まだ夫とは顔を合わせたくなかった。

イライラを抑えたくて、エレナは薬の代わりにスマホを手にしてXを開いた。

―息子の教育方針について夫とバトル。昭和の価値観を押し付けてくるの、ふざけんな!

語尾に怒りのマークを付けて投稿する。早く反応がほしい。誰かに共感してもらいたい。近くのベンチに座り、エレナは小さな画面をじっと見つめる。顔はほてるのに、手はかじかんだ。スマホを握る左手の甲を右手で摩る。もう少し厚手のコートを着てくればよかった。

目の前を、二歳ほどの子供と母親が手をつないで歩いていく。どこかで聞いたことのある歌を母親が歌い、それに合わせるように子供が飛び跳ねながら笑っている。幸せそうな歌声が離れていき、聞こえなくなったら、強い木枯らしが吹き抜けた。こんな寒い中で、いったいわたしは何をしているんだろう。何を待っているんだろう。

いいね! がついた。《ひよどりママ》だ。すぐにリプライがあった。

―わかります! お互いの価値観が浮き彫りになりますよね。中受をきっかけに離婚というケースも珍しくないとか!?

最後に汗のマークがついていた。そのリプライにいいね! で返すと、少し気持ちが和らいだ。

離婚か……。淡田はすでに一度離婚している。高校の同級生と二十代のうちに結婚し、年子の子供が二人いる。結婚生活は十年も持たなかったようだ。新しい物好きの淡田は、元妻に未練などいっさいなく、成人して働いている子供たちとは、年に一度の頻度で会っているらしい。二人とも自由が丘国際学院の出身で、上の息子は東大へ、下の娘は京大に進学したようだ。自分の血を受け継いだ子供たちが優秀なのは嬉しいのだろう。その話は酔った時に何度か聞かされた。

前妻の子たちだって中学受験しているじゃない。結果的に東大や京大に進んで、鼻高々なんでしょう。類だって、東大を目指すことはできる。いや、国内に留まることなんてない。海外の有名な大学だって視野に入れている。エレナはスマホを握りしめてベンチから立ち上がる。下駄を履かせてもらったなんて、誰にも言わせない。

(第十一話をお楽しみに!)

イラスト/緒方 環 ※情報は2024年12月号掲載時のものです。

おすすめ記事はこちら

悩みは中受だけじゃなく、夫の浮気の疑いも確信に変わって…【中学受験小説】

こんなハズじゃなかった…「中学受験」の後にも子どもの人生は続く【エピソード5選】

茂木健一郎さんに聞いた「中学受験で燃え尽きてしまう子、自信を持ち伸びる子」その分かれ道は?

STORY