今だから、心に響く言葉⑨――HERSアーカイブから
バックナンバーからの名言集。
2009年3月号では、萬田さんの持論「『まだ50』と『もう50』」を使い分けたカジュアルについて特集しました。
「ファッションも生き方も、積み上げてきたものがあるから、今それをベースに遊べる余裕が出てきたのかもしれません。
20代、30代、40代半ばまで大人をやりきって、今、私の中に眠っていた少女がむくむくと顔を出し始めている感じ。だから、50歳の今の私は、内に大人と子供が両方存在する、‟こどな”なのかもしれませんね。」
洋裁の仕事をしていたお母さんのミシンの音を聞きながら育ったという萬田さん。
3歳の頃にはバービー人形を買ってもらい、着せ替え遊びをしながら「大人になったら、こんなふうに素敵な洋服を着よう」と夢見ていました。
「だから、私のオシャレ心は、この3歳で手にしたバービーが原点。でも、実際に大人になった私はというと、ボン、キュッ、ボンのめりはりボディのバービーというよりは、頭でっかちで2頭身のブライス人形に近い(笑)。それで、数年前から愛らしいブライス人形に魅せられて、代官山のショップにこっそり通ったりして。」
インタビュー連載「書きかけの履歴書」は、歌手の山下久美子さん。
のどかな温泉の街、別府で育った彼女は、高校2年生の時に中退。その理由は――
「私の高校は女子校で、髪を結ぶ、から始まって規則がものすごく厳しかった……そういう世間の『こうあらねばならぬ』がいつも疑問でした。なぜ自分を自由に表現できないの? と。きっかけは春休みに喫茶店でアルバイトをしたことです。学校に知れ、母が校長先生に呼び出されたのですが、先生の言葉に納得がいかなかった母は、涙ながらに娘をかばってくれたんですね。その母の姿を見て、学校はもういい、という気持ちになり、家族会議の末、すぐに退学届を出しました」
そして、16歳の夏には、ライブハウスで知り合ったミュージシャンのワゴン車に乗り込んで博多へ。親には黙って、少しの服だけをバッグに詰めて……。
「気分はアメリカのロードムービー。あの日のことは今もはっきり思い起こすことができます。右も左もわからない状態って何て素敵なんだろうって。不安のかけらもなく、わくわくする思いでいっぱいでした。私は先が見えてしまうような人生には、全然魅力を感じないんです。あらゆることに縛られたくないという感覚が強くて、これはもしかするとひとつの才能じゃないのかと(笑)」
その後は博多で初めてステージに立ち、渡辺プロダクションにスカウトされ東京へ。
21歳でデビューし、6枚目のシングル♪「赤道小町ドキッ!」が大ヒット。
まさにめくるめく展開でした。
私生活では、結婚、離婚を経て、41歳で双子を出産。
シングルマザーとして、音楽をセーブしながら子育てをし、ちょうどこ50歳になった年にこのHERSの取材が行われました。50代に向けての思いについて、彼女は以下のように答えます。
「自分の足で、さらに大地を踏みしめて生きていきたいですね。明日は明日の風が吹く、と生きてきた時代とは、また違った強さ、自由度があります。決して人に勧められる人生ではないけれど、私は自分の人生をとても気に入っていますし、もっともっと深く味わっていきたい。とても楽しみですね」
自由であるためには、強さが必要。彼女の言葉から、そう感じました。
この号には、「49歳の誓い」というページもありました。当時49歳の方々に、50代に向けての抱負を語っていただく企画です。
2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』で脚本を手がけた田渕久美子さん。
彼女は『篤姫』にとりかかる直前の2006年夏に結婚し、『篤姫』を最後に脚本家を引退するつもりだったといいます。
しかし、その後、夫はがんを患い、2008年の10月に他界。『篤姫』の放映期間の途中でした。
「夫の死を見届けて思うのは、人生は必ずしもやりたいことをすべてやり遂げて終えられるわけではないということ。また同様に、生きていても思いがけないことで予想に反した方向へ進んでしまうこともあるのだということ。私自身『篤姫』の後は、もっと優雅に暮らしている予定だったんです。……ところが、夫の死によって、私の意向とは裏腹に、休む間もないほどの忙しい毎日を送っています。それが前へ進む糧となっているのも事実ですから皮肉なものですね。」
50になってから取り組みたいこととして、英会話、ソシアルダンス、アルゼンチンタンゴ……などを挙げてくれた田渕さんですが、同時に、このようにも語ります。
「日本一の男は見つけたので、今度は世界一の男を目指します! と言っても、天にいる夫がオーケーしてくれたら(笑)。」
ちょっと、泣けちゃいました……。
構成・文/川原田朝雄