「シリア難民として 日本に来た僕が、 いま伝えたいこと」
本誌ライター髙田が5歳の息子とたまたま参加したサッカースクールの体験授業。そこで、コーチをしていたのがシリア難民の青年ジャマールさんでした。彼の話を聞いて見えてきたのは、遠い国の出来事として報道で知るだけだったシリア内戦の実態とそれに翻弄される人たちの姿。日本と何ら変わりない「普通の大学生」がある日突然、戦争に巻き込まれ難民になること。それは決して他人事とは思えません。
共働きの両親、妹との平和な暮らしが一変
――大学生活と仕事で日々忙しく過ごすジャマールさん。いつも明るく朗らかで、戦火から逃げまどう「難民」のイメージとはかけはなれています。日本に来るまでのいきさつは?
「内戦が起きる前のシリアは平和な国でした。日本のように治安が良く、夜中に出歩いても問題なかったんです。日本について知っているという人も多く、日本の漫画もとても人気があります。僕も『キャプテン翼』がきっかけでサッカーをはじめたほどです。
シリアの内戦がはじまった頃、僕は英文学を専攻する大学生でした。学生生活のかたわらサッカーのシリアリーグ選手としてもプレーしていました。英国にも留学したかったし、将来、サッカーシリア代表になることも夢見ていたのですが、その生活は内戦で一変してしまいました。」
――ジャマールさんのご家族は?
「両親と今、高3の妹がいます。父親はケーキ作りが得意なパティシエで、母親は国営のテレビ局に勤務する共働き家庭でした。シリアの大学は原則無償で通えるので、アルバイトの必要もなく、気楽な学生生活を送っていました。100平米を超すくらいのマンション暮らしで生活の不安は何もなかったんです。僕が通っていたダマスカス大学は国内最古の大学でアサド大統領の母校でもあります。日本でいえば東大のような立ち位置で日本語学科もありました。」
――シリアから逃げなくてはならないと決断したきっかけは?
「”アラブの春”の後、シリアでも市民が参加するデモが盛んにおこなわれるようになりましたが、当初は危険な兆候はありませんでした。しかし情勢が悪化するに従い、デモに参加した友人が政府に拘束され殺されたり、爆撃を受けたり……親しい人を何人も亡くしました。それでも、我が家はまだ何とか大丈夫という思いがあり、現地にとどまっていました。でもある日、自宅マンションが爆撃されたのです。昼食の準備中にものすごい爆撃音と衝撃があり、外に出てみると、マンションの上層階は跡形もなく吹き飛ばされていました。いよいよ危ないと感じた僕はパニック状態になった母親と妹を連れ、シリアから出国しました。この時点で財産の多くを失うことになりましたが、命には代えられません。エジプトに8カ月間ほど滞在し、日本に渡航するための準備をしました。レバノンに渡り、日本大使館で観光ビザを取得。わずかに残ったお金で日本行きの航空券を買い、来日したのは2013年の秋のことです。約半月後、東京の入国管理局で難民申請を行いました。」
日本で難民認定されるまで
――なぜ日本に来ることを選んだのですか?
「叔父が日本人と結婚していたため、そのつてを頼って来日することができたんです。時間はかかりましたが難民申請も通りました。家族全員が無事日本に来ることができた、という点で僕はとても恵まれていたと思います。それでも、難民として認定されるまで、1年以上かかったので、お金も底をつき借金して生活するしかありませんでした。この時期がいちばんきつかったです。今までろくにアルバイトもしたことがなかったのに、生活費を稼がなくては生きていけなくなりました。日本語も話せないなか、建築現場で日雇いの仕事をしていじめられたり、仕事中にくぎを踏んで、破傷風になったこともあります。数カ月の入院の後、レストランの仕事を見つけましたが、一度シリアに戻った父親に送金する必要もあり、お金が足りません。週に6日、十数時間連続で働く日々が続きました。」
――今では国籍を問わず友人も多いジャマールさん。どうやって日本の生活に馴染んでいったのでしょうか。
「日本語がままならなかった時も、サッカーをやりたかったので地元の体育館に足を運んでいました。英語や片言の日本語でも、”仲間に入れてほしい”ということを伝えると、快くチームに入れてくれる人たちがいたんです。少しずつ会話ができるようになると生活は変わっていきました。日本語能力試験を取得し、留学生として明治大学に合格。奨学金を得て大学に通うことができるようになりました。今ではサッカーのコーチや英会話レッスンの講師、翻訳の仕事もしています。妹は、僕以上に日本語が得意。中学生の頃には英語スピーチコンテストで入賞したこともあります。最近、都内の大学に進学が決まりました。僕たちきょうだいは比較的早く語学を習得したので、日本の生活にとけこむのが早かったのですが、父親は日本語がしゃべれないので、せっかく料理人としての腕があるのに生かせないのが残念です。仕事ができないので日中も家で過ごすしかなく、気持ちがふさいでしまうこともあるようでした。それでも一昨年はクラウドファンディングでお金を集め、父親と期間限定のシリア料理レストランを青山でオープンしました。いつか親子で常設の店舗を作るのが夢です。」
――シリアと日本の生活はどんなところに違いがありますか?
「シリアの職場の雰囲気は日本とは全く違います。仕事中も和気あいあいとしゃべりしながら作業するのが普通だし、職種にもよりますが、朝出社したら、午後2時くらいには仕事を終え帰宅する人も多いんです。来日後、母親はレストランや衣料品チェーンのバックヤードで働いていましたが、言葉も生活文化も違うなか、慣れない仕事をするのは大変でした。母親はただでさえ繊細な性格なのでストレスがたまることも多く、泣いている姿も何度か見ています。かわいそうでした。今は僕の収入も増えたので”フルタイムで働かなくてもいいよ”と言い、徐々に仕事を減らしてもらいました。母はそれで少し気持ちが楽になったようです。」
これからの夢、シリアの未来
――今は、ドイツ人留学生の彼女と婚約し、両親の住まいの近くで同棲中です。
「彼女とは大学で出会いました。もともとは留学生グループの友人同士。僕は生活することで精いっぱいで恋愛どころではないと思っていたのですが、彼女とは、ものの考え方や価値観など深いところで気が合う気がしたんです。ソウルメイトのような関係です。
最近は俳優としてテレビ番組の再現ドラマやCMに出演することも増えました。俳優の仕事もすごく面白いんですよ。僕が『ラスト・サムライ』みたいな風貌で和服を着て箱根を案内する動画はYouTubeで観られるのでぜひチェックしてみてください。それから、プロサッカー選手になる夢もあきらめていません。練習を続け、Jリーグのトライアウトに挑戦するつもりです。」
――日本の読者に伝えたいことはありますか?
「日本でもイスラーム国などによる破壊や殺戮の様子が報道されたと思います。これだけは知っておいてほしいのですが、本来イスラム教の教えでは殺人は絶対悪でいかなる理由があろうとも許されることではありません。彼らのしていることはイスラムの教えにも反しているんです。現在もシリアに残って生活している友人もいます。結婚したり子どもが生まれたというニュースも送られてきます。そこで暮らしている人たちがいるんです。シリアは少しずつ復興しているものの、経済状態は悪いままで仕事もほとんどないので暮らしは楽ではありません。いつかシリアに戻りたいという思いは僕も家族も持っていますが、それがいつになることか……。
日本の今の暮らしは平和なもので、これがずっと続くと思う人も多いでしょう。でも、“永遠に続くものなんてない”ということは伝えたいです。シリア人は高等教育を受けた人が多く、語学さえできれば日本でも仕事をするチャンスが広がるんです。イスラム教では見返りを求めない親切心や奉仕の精神が重要視されます。相手の気持ちになって考えてみてください。もしも難民となり困っている人に出会ったら、日本語を教えてあげるとか、できることをして助けてあげてほしいです。」
シリア・アラブ共和国
通称シリア。首都はダマスカス。古代から交通の要衝として栄え、世界遺産も数多い。
【なぜ、シリアは内戦状態に?】
2010年末頃よりはじまる中東の民主化運動「アラブの春」により、チュニジア、エジプト、リビア、イエメンでは政権崩壊。しかし、シリアのアサド政権は倒れず、軍・治安当局は抗議デモを武力弾圧。政府軍と反体制派の対立、イスラーム国などに代表されるイスラム過激派の台頭、これらの組織に対する「テロとの戦い」を名目にした外国の干渉などにより内戦状態が続き、死者は46万人を超えると推計され、総人口の半数以上が国内外に避難。シリア内戦は「今世紀最大の人道危機」といわれる。
撮影/須田卓馬 取材・文/髙田翔子 編集/フォレスト・ガンプJr.
協力:エトハインターナショナルサッカースクール レッスンのすべてを英語で行うサッカースクール(幼児・小学生クラス)を運営。アメリカ合衆国カリフォルニア州に本部を持つ、国際スポーツ教育団体Universal Sports Gate認定校。赤坂、目黒、文京、西新宿など拠点は都内約12カ所。ジャマールさん担当クラスなど詳細は要問い合わせ。https://etoha-international.jp/
*VERY2020年2月号「サッカー大好きな普通の大学生だった。ある日、内戦が起きた。 シリア難民として日本に来た僕が、いま伝えたいこと」より。