【中学受験小説】本番まであと4カ月。成績下降に塾の無断欠席…親子ともども満身創痍なこの時期に、見えてくるものとは

【前回まで】模試の結果に抜毛症が悪化する娘・沙優を心配する美典、息子・真翔の面接対策の話題に慇懃なもの言いをする夫に苛立つ玲子。エレナは、Xの中で勉強する息子におかまいなしにエレキギターを弾くモラハラ夫を愚痴り、模試で類が麻見谷中の合格圏内に入ったことを喜ぶうち、「アナウンサー尾藤エレナ」だと身バレしてしまう。中受まで5カ月を切り、母たちのメンタルは揺れに揺れて……。

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【中学受験小説】本番まで五カ月。成績不振、夫婦不仲にSNSの恐怖…。母たちのゆらぐ思いが交錯する秋

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【第二十一話】 小6・10月

「あなた、あれでしょう、テレビでニュース番組に出ている」

啓明セミナーの前のガードレールに座ってスマホを見ていたら、初老の女性が詰め寄ってきて、エレナは思わずのけぞった。

「あれだ、エリカさん」

ジョンストンズの大判のマフラーで顔の輪郭を隠すようにしているのに、どうして気づかれてしまうのだろう。エリカじゃないし、名前がすんなり出てこないくらいにしか知らないような人に見つけられるなんて。

「……違います」

小声で否定し、エレナはその人から離れた。

スマホを見ると、八時四十分。あと十分ほどで類が外に出てくるはずだ。声をかけてきた女性はもういなくなったが、早くここから離れたい。

《ひよどりママ》から尾藤エレナだと暴かれたダイレクトメールを受け取って以来、エレナの警戒心は高まっていた。《ひよどりママ》のツイートをチェックしているが、いまのところ尾藤エレナに関することを投稿していない。エレナ自身、《アマディスのかおり》でツイートするのも止めている。アカウントを消去したいが、それだと自分が尾藤エレナだと認めたことになりそうで、とりあえず放置していた。

麻見谷中学校の過去問で最低合格点を超えたとツイートしたのは、地雷だった。浮かれるあまりバカなことをしてしまった。

啓明セミナーの建物の出入り口のほうに目を向けていると、見知った顔が出てきた。美典だった。道端に停めていた自転車のスタンドを足で外しているが、ひどく慌てている。

「美典さん」

声をかけてみると美典はすぐにエレナだとわかったようで、ハッとしたような表情になり、自転車を押して駆けてきた。

「エレナさん! 沙優を見かけなかった?」

大きな声で名前を呼ばれてぎょっとしたが、美典の顔が切羽詰まっていて、緊急事態なのだと察する。

「沙優ちゃん? いま、授業中なんじゃないの?」
「それが無断で休んでいるの。塾から来ていないって電話があって」
「無断欠席? それは心配ね…… スマホは持っていないんだっけ?」
「キッズ携帯があるんだけど、家に置いてあって」
「沙優ちゃんと、何かあったの?」
「あの子、今日は塾に行きたくないって駄々をこねたの。頑張っているわりに成績が伸びなくなっているのもあって、いま一つやる気がなくなっていたのよね。ここに来て塾にも行きたくないなんて言うから、つい怒鳴っちゃって。なかば無理やり家から出したの」
「ああ、そうなんだ」
「道を探してもいないし、塾に行ってみたけど、もちろんいなくて」

美典は泣き出しそうな表情で額に手を当てる。腕時計を見ると、授業が終わる八時五十分をすぎていた。塾の建物を見るとちょうど類が外に出てくる。

「類! こっち」

エレナが呼ぶと、類は気づいてこちらにやって来る。

「ママ、今日さ、開煌中の問題、一問解けたよ」
「あら、すごいわね。ところで沙優ちゃん、お休みだったでしょう? 沙優ちゃん、塾に行かないで家にも帰っていないんだって」
「バックれたってこと?」

驚いたように類がそう言い、エレナは曖昧に頷いた。

「類くん、どこに行ったか心あたりない?」

美典の問いかけに首を傾げた類だったが、ふいに何かを思い出したような表情になった。

「もしかしたら、駒沢公園かも?」
「探したんだけど、いなかったんだよね」
「どこを探しました?」
「塾に行くのに通りそうな道や噴水のあたり」
「ああ、じゃなくて。りす公園は?」
「りす公園?」

駒沢オリンピック公園の広大な敷地の中には、動物にちなんだ三つの児童公園がある。うま公園、ぶた公園、りす公園。

「ディズニーだっけ、りすのキャラクターが好きだから、りす公園がお気に入りなんだって」

類がそう言うのを聞いて、美典は目を見開いた。チップとデール! たしかに沙優が大好きなキャラクターだ。

「行ってみる!」

エレナと類にそう言い残し、美典は自転車を走らせた。

十月も半ばをすぎて、夜風はすでに真冬のものだ。ハンドルを握る手が冷たい。こんなに寒い中、ずっと外にいるのだろうか。その姿を想像すると涙が出そうになる。

りす公園の出入り口のそばに自転車を停めて、美典は中に入る。暗がりを照らす白い街灯を頼りに見回すが、人の姿は見当たらない。

「沙優! 沙優!」

泣き出しそうな気持ちで、美典は名前を呼んだ。どうかお願いだから、わたしのもとに帰ってきて。

「ママ?」

声が聞こえて、美典は左右を見回した。幅の広い滑り台の後ろ側がトンネルになっていて、その出入り口のところに身を潜めるようにしてこちらを見ている姿がある。

「沙優!」

美典は一目散に走り出し、娘を抱きしめた。自分の腕でぎゅっと捕まえると、張り詰めていた全身の筋肉が緩んだ。

「もう! なんでこんなところに」
「……ママこそ、なんで?」
「塾にも行っていないし、家にも帰ってこないし」
「あっ、バレたの? 塾を休んだこと」
「当然でしょう! 先生から連絡が来て……」

まさか、この子は勝手に休んでもバレないと思っていたのか。生徒が連絡もなしに欠席したら、塾から電話がかかってくることを、この子は知らなかったのか。

「……塾が終わった頃に帰ればいいかと思って」

沙優の言葉を聞いて、美典は何とも言えない気持ちになる。安易な考えに腹が立った。それと同時に、そんな子どもじみたことを考えるくらいに、この子はまだ幼いのだということに気づかされた。ここ最近、成長したように感じていたが、それは沙優の一つの側面でしかなかったのだ。そうだ、まだ十二歳になったばかりの子どもだった。

「塾に行きたくなかったの…… 小テストの勉強もできてなかったし、また低い点数を採ったらつらくなるし」
「小テストくらい」
「ママが言ったじゃん、小テストができなかったら、レビューテストができるわけがないって。自由が丘国際なんか無理だって」

うわぁ、と声を上げて沙優は泣き出した。昨日の夜、悪い点数の小テストをリュックの小さなポケットから見つけ出し、カッとなって言ってしまったのだ。

「ママが無理だって言うから…… 自由が丘国際に合格できないって言うから」
「そんなことない! 撤回する! ママが間違ってた!」

泣いている娘の背中をさすりながら、美典は謝った。

「でもね、沙優もそう思うんだ。自由が丘国際なんて…… 無理だよね」
「無理だなんて言わないで。あと三カ月あるんだから、頑張ればきっと合格できるよ。夏樹おじさんも言ってたよ、沙優は中学受験に向いているって。それに、最後まで諦めない子が強いんだって。諦めないためには、本人がその学校に入りたいと強く希望していることが何よりも大事なんだって。沙優はどうしても自由が丘国際に通いたいんだよね? そうだよね?」

美典がそう言うと、胸元で小さな頭が頷く。

「沙優に自由が丘国際みたいな学校で勉強してほしいって…… ママが言ったから」
「ママが言ったから?」
「そう言ったでしょう……」
「言ったけど…… それで沙優自身も行きたいって思っているんでしょう? 自由が丘国際に入ってエレナさんみたいなキャスターになりたいんでしょう?」
「そうなんだけど……」

なんだろう。この、もわっとした気持ちは。

胸のあたりにもやもやとしたものが広がっていくのを感じながら、その煙のようなものの正体を摑みきれない。

「美典さん?」

その声で、美典は後ろを振り返る。エレナと類がこちらに駆けてきた。美典と一緒に沙優がいるとわかると、エレナはほっとしたように胸に手を当ててみせた。

「沙優ちゃんいたんだ」
「わざわざ来てくれたの、ありがとう。心配させてごめんね」
「ごめんなさい」
「ううん、無事でよかったわよ」

謝る沙優に、エレナは優しく微笑みかけた。

「沙優、類くんが教えてくれたのよ。沙優がどこに行きそうかって訊いたら、りす公園かもしれないって」
「そうだった。チップとデールが好きだからって話したんだ」

沙優は美典の身体から離れ、類のほうを向いた。

「無断欠席するなんて度胸ありすぎだろう」

類はちゃかすように笑う。

「もう二度としない。日が暮れたらテキストも読めないし暇すぎ。あっそういえば、さっきね、真翔くんもいたんだよ」
「真翔くんが? お昼?」

美典は驚いて訊き返した。

「ううん、さっき。十分くらい前かな」
「こんな遅くに?」

エレナも驚く。

「誰かが公園でブラブラしていたから、外に出て見てみたの。それで、同い年くらいだったから近づいてみたら、真翔くんだった。名前を呼んだら、『うわ、小向』って言って逃げちゃった」

沙優の説明を聞いて、美典とエレナは顔を見合わせる。

「一応、玲子さんに伝えておこうか」

美典の提案に、そうね、とエレナは頷いた。

「こんな時間に外にいるなんておかしいもの。もしかしたら、玲子さんは知らないかもしれないし」

エレナの言うとおりだ。美典はコートのポケットからスマホを取り出し、玲子の番号を発信した。

「真翔? 部屋にいるはずなんだけど」

美典から思いがけないことを告げられ、玲子は動揺する。

「確認しておいたほうがいいかも」
「いま部屋を見てくる。ところで沙優ちゃんは大丈夫だったのね?」
「こっちは大丈夫だけど、いろいろ難しいわ…… まあ、とにかく、そういうことだから」

美典との電話を切り、玲子は二階に上がった。真翔の部屋のドアには黒いペンで『入室禁止』と真翔の直筆で書かれた貼り紙がある。過去問をする時には邪魔されたくないからという理由で、二週間ほど前に突然貼られた。そのことには納得したのだが、まさか……。

「まーくん、ちょっといい?」

ドアをノックしたが、返事がない。ドアには鍵がついていないので、いつも開くようになっている。中を見ると、白いライトがついた机に真翔の姿はなかった。

「お母さん、どうしたの?」

背後で声がして振り返ると、真翔だった。

「どこに行ってたの?」
「トイレだけど」

真翔の手が不自然に後ろに回されている。玲子はすばやく真翔の裏に回り、隠しているものを強引に摑んで奪う。見たことのない黒のスニーカーだった。

「何よ、これ」
「えっと…… 別に」
「別にって、どうしてスニーカーを持っているの? どこに行ってたの?」
「だから、いや、別に」
「別にじゃないでしょう! 駒沢公園にいたんだって? 沙優ちゃんママから電話があったの。こっそり抜け出して何をしてんの!」

玲子がそう言うと、真翔も観念したようにため息をついた。

「ったくもう…… 小向、チクるなよ」
「チクるなって…… 何を考えているの! こんな夜に、親の目を盗んで家から抜け出すなんて不良みたいなことを」
「散歩してただけだよ!」
「散歩って、危ないでしょう。それに、この靴はどうしたの?」
「…… 買った」
「買った? どこで?」

真翔は口籠る。奪ったスニーカーはずいぶんと履き潰されていた。

「どうしてこんなにボロボロなの。本当のことを言いなさい!」

玲子が声を張り上げると、真翔は怯んだように首をすぼめた。

「…… 学校の落とし物ボックスにあった」
「落とし物? 勝手に持ってきたってこと? 他人の物を勝手に持ってきたら、それは泥棒よ」
「ずっと前から入ってたんだよ…… 誰も取りに来ないんだって」
「そういう問題じゃない!」

あまりのことに叫んだら金切り声が廊下に響き渡った。だってさ、と真翔は涙声になる。

「家と塾ばっかでしんどいよ…… ぼうっと歩いたりしたかっただけなんだよ…… でも、お母さんにバレたら怒られるから、十分くらいで帰るようにして」
「そうならそうと、言いなさいよ!」
「ダメって言われたから! 夜に出かけるのは危ないとか莉愛を置いて出かけられないとか」

揉めている声を聞きつけて莉愛が廊下に出てくる。

「どうしたの?」
「うっさい! お前はあっちに行ってろ!」

半泣きの顔で真翔が怒鳴ると、「うっせーのはそっちだろ!」と莉愛は気の強い顔で言い返す。

ああ、なんて口が悪いんだろう。どうしたものか。自分の子どもたちを前に、玲子は頭を抱えたくなる。

その時、階段を上がる音がした。また勝手に義母が来たのだろうか。こんな暴言を吐き合っているところを見られてはならない。玲子は「シッ!」と口の前に人差し指を立てて、二人を静める。すると、二階に上がってきたのは翔一だった。

「どうしたんだよ、みんな揃って」

翔一は小さいスーツケースを手にしている。

「あなたか……」
「何かあったのか?」
「ちょっとね…… っていうか、あなたこそ、どうしたの?」
「隣の部屋に変な外国人が入ってきてさ、うるさくて寝られないんだよ。部屋を変えてもいいんだけど…… まあ、そろそろ」

翔一は言葉を濁し、玲子の顔を窺うように見る。何なんだ、この状況は。何から捌いていけばいいのやら。

「とにかく真翔、このスニーカーは没収。話はまた明日。莉愛はもう寝なさい」

二人揃って、はーい、と言って、自分の部屋に戻っていく。

「おかえりなさい」

翔一にそう言ってその手からスーツケースを取り、玲子は夫の仕事部屋に運んだ。

「俺、帰ってきてもよかった?」

夫婦だけになり、翔一は玲子に訊く。

「……つばきさんに、何か言われたの?」

翔一は、えっ? と意味がわからないという表情になる。

「何も言われていないけど…… っていうか、もう連絡取ってないから。信じてもらえ……」
「信じるわよ。あなたがそう言うなら、信じる」
「終わったから」
「わかったって。疲れたでしょう。お風呂に入ったら」
「うん、そうする」

玲子は翔一の部屋を出て、ドアを閉めた。

二日前、玲子はつばきのクリニックに行って診察を受けた。間近で見るその人は、ホームページで見るよりも全体的にハリがなく、だけど年相応の落ち着きを纏っていた。ドライアイを理由に診察を受けた玲子のカルテを見たつばきは、「神取さん?」と名前を呼んで、こちらを探るような目で見た。が、ほんの数秒のことだった。

つばきは淡々と診察をした。待合室にいる時には手が震えていた玲子も、その時には平常心を取り戻していた。

五分ほどで診察を終え、ドライアイ用の目薬を処方してもらい、玲子は診察室を出た。どうしても夫の愛人をこの目で見たかった。翔一に知られたら激怒されるとわかっていても、抑えきれない衝動だった。

その人を一目見ないことには、どこにも進めなかった。そして、会ってみてよかった。幽霊の正体を見れば、摑みどころのない恐怖心のようなものから解き放たれた。

つばきは、玲子が翔一の妻だと気づいたはずだ。翔一に、そのことを伝えられてもおかしくない。覚悟の上だった。だけど、翔一はそのことを知らないらしい。つばきと別れたのは、本当なのだろう。

これは、あたしが勝ったということ?

たしかに、そうだろう。だけど、こちらが負った傷も深い。

はあ、と深く嘆息する。というか、満身創痍。もう、くたくただ。

(第二十二話をお楽しみに!)

イラスト/緒方 環 ※情報は2025年11月号掲載時のものです。

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