介護と更年期が同時に訪れた阿川佐和子さん「母に優しくなれたのは”うしろめたさ”があったから」

エッセイスト、小説家、インタビュアー、女優として広くご活躍の阿川佐和子さん。ご両親の介護が始まったのは58歳のとき。50代は、更年期と介護が重なり、大変な時期だったと当時を振り返ります。STORY世代にも、近い将来やってくる〝更年期と介護〟に向けて、阿川さんがどう考え、どう乗り切ってこられたのか、語っていただきました。<全2回の2回目>

インタビュー前編はこちら


阿川佐和子さんプロフィール

1953年生まれ。エッセイスト、小説家、インタビュアー、女優。著書には、ミリオンヒットを記録した『聞く力 心をひらく35のヒント』や、よみうりランド慶友病院会長・大塚宣夫氏との対談『看る力』(ともに文春新書)等多数。

11年も続いた更年期症状は辛かった・・・

◇ ズルしてるうしろめたさで母に優しくなれたことも…

――介護をされていたときには、更年期症状も重なっていらしたとお聞きしました。

49歳くらいのときにちょっとホットフラッシュがあったのですが、その後はしばらくなかったんですね。ところが、53歳くらいから、特に夏場、ひどいホットフラッシュに襲われました。あるとき、メーク中に、編集の方に「連載の〆切を延ばしてもらえないか」と電話をしたところ、「ギリギリなんです」と言われて。そしたら、とたんに頭がカーッと熱くなって、ヘアメークさんが「阿川さん、目玉焼きが焼けそうです」というくらいになっちゃった。特に、後頭部のあたりは汗だらだら。あまりに汗をかくものだから、その部分だけ髪が傷んじゃうほどでした。

――介護と重なっていたのでは本当に大変でしたね。

50代は体調も精神も不安定なのに介護もあって、イライラしたこともありました。当時、テレビと週刊誌の連載で、月に8人、インタビューをしていて、その準備もありましたし、小説やエッセイの連載もあったので、パニックになったことも。仕事を終わって、食事を作っているときに〈もうやってられない!〉ってなることもありましたね。

――どうやって切り抜けたんですか?

まずは、人目を気にせず、自分が楽になることだけ考えました。それまでは、腕が太いので、ノースリーブは着なかったのですが、ノースリーブを着て、ヘアスタイルはショートに。うるさくて気になる前髪は短く切り、ラジオはすっぴんで勘弁してもらうようにしました。それでも情緒不安定で、ときには涙がどっとあふれてしまうこともあって。

人に話すことが何よりの発散でした。更年期も介護も、友達に話すとみんな経験者だったりして、わかってくれるんですよ。先輩から、「更年期症状は10年続くわよ」と言われて「そんなに?」と仰天したけれど、結局私も11年続きました。

また、介護が始まったときは、友人に「阿川、1~2年頑張って踏ん張ろうと思っているでしょ? でも、1年や2年じゃ済まなくて、10年、20年かかるかもよ。だから、最初から力を入れちゃダメ。手を抜いてやりなさい」と言ってもらい、仕事を辞めるのを思いとどまりました。

介護と更年期で大パニックになっているときに、古くからの友達が年1回集まる会があったんです。「今回は行けるような状況じゃないからパスする」と言ったところ、「5分でもいいから来なさい」と言われて……。行ってみると、そこにずらりと並んでいたのは全員介護経験者。ヘルパーさんとケンカして大騒ぎになった話や、お姑さんがオレオレ詐欺に騙された話、施設に入れたら戻ってきちゃったおばさんの話など、涙あり、笑いありの経験談をたっぷり聞かせてもらって、とても楽になりました。情報交換は大切です。

◇ 介護は女だけの仕事ではありません

――他にも助けになったことはありますか?

ゴルフです。50代で始めたんですが、更年期のときも、介護中もゴルフは大好きで行きたかった。それで、母に「今日はそっちに行くの夕方になるよ」と電話してゴルフに行くんです。実家に着くと、私はクタクタ。だってゴルフやってきたんだもの。でも、母は「お仕事、大変ねえ」と言ってくれるわけです。するとこちらもうしろめたいから、母にうんと優しくできる。父にガンガン言われたときは、父のお金でブラ3つとかタイツとかを買いました。大きなものは買えないけれど、ガス抜き(笑)。介護中は、そういうズルできるものを何か持っていたほうがいいと思います。

――娘は「自分がやらなきゃ」と背負ってしまいがちですが、介護以外の息抜きになるものを持つことも大切なんですね。

そうなんですよ。介護は女の仕事という世の中の風潮があって、女性は負い目を感じがち。親の介護はやったことがないのに、女ならできると思われてしまう。そうやってずっと、女が介護を担うことを女自身が許してきてしまったんです。でも、男だってやれば必ずできる。

私の兄弟は、シフトを組んで料理でもなんでもやってくれたんですよ。それでも、下の弟が実家にいたときに、母が粗相をしてしまい、「どうしたらいいかわからない」と泣きそうな声で私に電話をしてきたことがありました。弟に言いました、「やればできる! まずシャワーを浴びさせて、着替えさせる。パンツの替えはタンスの中。なんてことない!」って。しばらくして、弟から「できた」と電話がかかってきました。できるんです。「あんたは偉い!」って褒めましたけどね。

◇ 今から心配しすぎないことせっかくの40代を楽しんで

――近い将来、介護や更年期を迎えることに不安を持つ40代にアドバイスをお願いします。

久々に両親に会ったりすると、急に老けたと感じることがありませんか? 私も40代の頃、同じように感じて、〈もし、両親を介護することになったら、どうしよう〉と何度も考えました。〈無理無理、絶対無理!〉って悲しくなって、シャワーを浴びながら泣いたことも。でも、実際に介護が始まってみると、母が心臓の手術をしたと思ったら、父が転んで入院した、今度は母が膝の手術、そのうち父の容態が悪くなり、と毎日が障害物競走のよう。目の前のことに追われて、あれよあれよと過ぎてしまうんです。だから、「介護は始まってから考えなさい」と言いたい。

ただ、最終的には、施設や病院に預けるとか、家で看とるとか、そういった大まかな目的地は決めておくと安心材料にはなるかもしれないです。私たちは、できるだけ母に家で過ごしてもらい、最終的には病院に、と決めていて、最期の4カ月ほどは、父がお世話になった病院に入院しました。

あとね、本当に思うんです。〈認知症になったからって何?〉って。認知症でも、ごはんは食べるし、ひげも生えるし、爪も伸びる。体の細胞は毎日生きている。それがあと10年なら、限られた日々を笑って過ごすほうが得。〈母を笑わせられればいいや〉って思ったら、介護する側もぐっと楽になるんです。

これから更年期と介護を迎えるSTORY読者の方々へ

・今から備えようと思っても無理です。始まってからひとつずつ解決してください。

・ひとりで抱えようとせず、きょうだいや病院の先生、知り合いを頼ってください。

・在宅で通すか、施設にするか、最終的なゴールをイメージするようにしてください。

介護真っ最中の’16年~’18年に新聞で連載した小説。認知症の母・琴子と仕事をしながら介護する娘・香子。ドタバタだけれど、笑いのある暮らしぶりや会話には、阿川さん実体験のエピソードや思いもちりばめられています。『ことことこーこ』¥836(角川文庫)

阿川家のアルバム

母と弟と。お正月に晴れ着で。お母さまは、ʼ20年1月までご自宅で過ごし、5月ご逝去されました。
父で作家の阿川弘之さんと。代表作は『きかんしゃやえもん』、『雲の墓標』、『山本五十六』等多数。
阿川家の家族写真。右が母、左は父の阿川弘之さん。手前が佐和子さん。
中国飯店 富麗華のオープニングパーティで司会を担当。右から佐和子さん、母、父。
父と何度も訪れたハワイ。お父さまは入院から3年後の’15年に老衰でご逝去。94歳でした。

編集後記

小さな体にパワーが満タン。はじける笑顔が素敵でした

結構な古株ライターになり、普段は緊張しないのですが、インタビュアーのバイブル『聞く力』の著者への取材となれば、心臓はバクバク。ところが、阿川さんは、笑顔で気さくに話してくださり、それが最高に面白い! あっと言う間の1時間半でした。実は、阿川さんは中高時代の大先輩。母校のお話もあれこれさせていただけて、本当に光栄でした(ライター 秋元恵美)

阿川さん:ワンピース¥101,200(デ・ドゥエ)ピアス¥36,300(ダニエラ・デ・マルキ/ともにアッシュ・ペー・フランス)ブーツ(スタイリスト私物)

撮影/西崎博哉(MOUSTACHE) ヘア・メーク/大森裕行(VANITES) スタイリスト/中村抽里 取材/秋元恵美 ※情報は2023年12号掲載時のものです。

おすすめ記事はこちら

原 千晶さん「30歳からのがん闘病経験で、あらゆる更年期症状のサインを見逃しません」

【細川直美さん】子育てが一段落。50代を前に見つけた将来の夢とは

家族で助け合うことは「自助」だと思いますか? それとも「共助」ですか?【上野千鶴子のジェンダーレス連載vol.19】

STORY