「若くして亡くなった妹のために、なりたくなかった美容の世界に」uka代表・渡邉季穂さん
女性としてこれからのキャリアについて悩むSTORY世代。’22年に女性活躍推進法が改定されてからはますます女性の活躍が期待され始め、徐々に女性管理職比率も高くなってきています。個人として評価され活躍される女性リーダーの方々には、キャリアの狭間で自身の生き方を見つめ、可能性を信じてチャレンジする姿がありました。今回ご登場いただくのは、トータルビューティーカンパニーとして、トータルビューティーサロンおよびストアの運営や自社開発商品の販売を手掛ける株式会社uka 代表の渡邉季穂さんです。(全3回の1回目)
渡邉季穂さん(57歳)
株式会社ウカ/uka代表
1965年神奈川県生まれ。理容店・美容院の3代目として幼少期を過ごす。自身のやりたい道を模索する過程で、祖父・父とは異なる形でビューティを追求する道を選ぶ。第一歩はネイリストとしてサロンに立ちながら、雑誌や広告でのクリエイティブ活動に従事。現在は、トータルビューティーを掲げ、東京にサロン、全国にストアを立ち上げると共に、自社ブランド「uka」の商品開発を積極的に行う。公式サイトはこちら
STORY編集部(以下同)――理容店を経営されていたお爺さまと、その跡を継ぎ美容院を経営されていたお父さまの元で育っておられますが、幼少期から跡を継ぐことを考えていたのでしょうか。
実は”美容師になりたくない”と思っていたんです。私がまだ幼稚園のころから、若いスタッフたちの手が荒れているのを見ていました。とても痛そうで、子どもながらにこの仕事は大変そう……やりたくない……って思ったんです。
それと、跡を継ぐことへのプレッシャーもありました。当時の父は、神奈川県の厚木市に5店舗の美容院を経営していました。スタッフは総勢80人で、彼らは父を”先生”と呼ぶんです。80人のスタッフやその家族の責任を負うことや、スタッフの先生にはなれないと思い込み、“私には無理”って思ってしまったんです。
――それは、なかなかのプレッシャーですね。それでも、理容師や美容師の免許はとられていますね。
父から「いざというときのために、免許だけは取っておいてくれ」と懇願されて……。それで、高校に通いながら通信教育を受け、卒業と同時に理容師の免許をとりました。その後、美容師の専門学校にも通い美容師の免許もとりました。免許は取得したものの、それでもやっぱり美容師の道に進むことは考えていませんでした。
――そんな渡邉さんが、今の道へ進むスイッチはどこで入ったのでしょうか。
将来が見定まらない状態の私に、3歳下の妹が「お姉ちゃんが跡を継がないなら、私がやりたい」と言ってきました。私と違って妹はビジネス思考が強く、経営に興味があったんですね。私は妹に「だったらサポートするよ」と伝えていました。
そんな妹が脳腫瘍になり、4年間の闘病の末、21歳の若さで亡くなったんです。
両親の悲しむ姿を目の当たりにし、”親を悲しませてはいけない。私がちゃんと面倒を見なきゃ”と、継ぐ覚悟を決めました。一方、両親も妹の死で、私の人生を考えたようです。「人生は短いし、いつ何が起こるかわからない。代々受け継いだ道を娘に歩ませるのは自分たちのエゴに過ぎないのではないか。娘が好きな道に進ませた方がいい」と。
継ぐ覚悟をした私にとって、両親の考えは驚きでしたが、私を尊重してくれていることが嬉しかったですね。
――妹さんの死は、辛かったですね。そしてご両親を思う渡邉さんの覚悟と、娘を思うご両親の思いに共感します。その後、どうなったのでしょうか。
父から”美容師になりたくないなら、メークをやってみてはどうか?”と勧められ、メークの勉強をしました。それなりに楽しかったのですが、同時に私は肌づくりの素材美を追求する方が好きなことに気づきました。結局メークは長く続きませんでした。
そんな矢先に、今の道に繋がる転機がやってきました。友人からネイルサロンに誘われたことがきっかけです。
当時の私は、自分の爪が大嫌いでした。表面はザラザラしていましたし、爪を噛んだり、小爪をむしり取るクセもあり、お世辞にもキレイとは言えない状態だったのです。
だから友人からの誘いにも後ろ向きでした。けれど施術が終わると、私の気持ちが一変していました。爪だけでなく指もツルツル・スベスベに生まれ変わり、さらに爪にはキレイな色がまとっている……爪へのコンプレックスが解消し、気分まであがっていたんです。
私のやりたい道は、コレだ! と思いました。同時に、ヘアの合間にネイルケアをすることができるし、お客様に絶対に喜ばれるサービスになるはず! と閃きました。すぐさま、美容院でのネイルケア導入を父に提案し、ネイルの勉強を始めたいと訴えました。父は、“どれだけ勉強すれば気が済むんだ”と、半ばあきれ顔でしたが受け入れてくれました。
――自分の”やりたい”を追求した結果、ネイリストの道を歩み出したのですね。美容院を営むお父様と、ネイリストの道を歩みたい渡邉さんとの間で、方向性について話し合われたのでしょうか。
27歳のときロサンゼルスで行われた“ビューティーショウ”に父と視察に行ったときのことです。
そこで現地でサロンを経営されているYukiさんと出会い、サロンを訪問させてもらいました。そこには日本にはない光景が広がっており、父も私も衝撃を受けました。例えば、カットやパーマをしている最中に、ネイルケアやフェイシャルの施術していたり、併設されたカフェでサンドイッチなどの軽食をしている人もいました。髪だけ、肌だけ、爪だけではなく、トータルで美を追求している場があったのです。父との間で、”目指したい姿は、まさにコレ! 日本でトータルビューティサロンをしよう”という方向性が一致しました。
そこでトータルビューティサロンの先駆けとして父は東京・青山に出店を決めました。私が30歳のときです。このとき、父からこう言われました。「美容院にネイルブースを併設する。専任スタッフを3人雇い、お前を含めて4人分の給料を支払うから、何とかやってみろ!」と。私は、経営の一旦を担うことに不安を覚え躊躇しましたが、父は”いい加減にしろ”と一歩も引きません。それで、覚悟を決めたことが、経営者としての原点となりました。
撮影/BOCO 取材/髙谷麻夕
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