タイタン社長・太田光代さんが振り返る不妊治療。40代の頃にもう少し粘っていたら、と後悔しています

お笑い芸能事務所・タイタンの社長として爆笑問題や昨年M-1グランプリを制したウエストランドの活躍を後押しする太田光代さん。爆笑問題の太田光さんにとって公私ともに良きパートナーである光代社長はSTORY 世代より少し上。小学生のころの夢は家族のために料理を作る「お嫁さん」だったと言います。「社長として会社経営するなんて思ってもみなかった」という人生の大転換、そこにあるのは光代社長の大胆なチャレンジスピリッツと表裏一体のやまとなでしこ魂。社長、不妊治療、そして一流芸人の妻、と導かれるように「誰も選んだことのない未開の地」を進んできた太田光代さん。今回は不妊治療をオープンにしてきたことでも知られる光代社長に治療の日々を振り返っていただきました。

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太田光代(おおたみつよ)

1964年7月6日、東京都生まれ。モデルやタレント活動などを経て、1993年、芸能事務所・タイタンを設立。現在は社長業のかたわら、自身もタレントとして活躍。夫は爆笑問題の太田光。2ヶ月に1度、東京銀座で行われる『タイタンライブ』を、『爆笑問題 with タイタンシネマライブ』として、全国25のTOHOシネマズ系映画館にて同時生中継しています。詳しくはHPをチェック!

凍結中の2つの受精卵「らん」ちゃんと 「らんらん」ちゃん

30代前半から不妊治療を始め、一旦お休みして40代でも再チャレンジ。そのときに摂取した受精卵を2個凍結していて、ひとつは「らん」ちゃん、もうひとつは「らんらん」ちゃんと呼んでいます。今後この卵子を移植するのは年齢的にちょっと難しい。子宮に戻しても多分発育しないでしょうから諦めはついています。でも受精卵があることによって、ちょっと励みになっているところがあるんです。可能性がゼロではないということで、少しだけでも希望が繋がっていて夢をみる余地があるというか。

25年ほど前、不妊治療をオープンにする人は皆無。 クローズされた世界でみな手探りでした

私が不妊治療に最初にトライしたのは今から25年以上も前のことです。当時は採卵するときに麻酔を使ってもらえなくて、痛くて痛くて。患者が動かないようにベッドに縛り付けて何人もの看護師さんが押さえつけるんです。採卵があまりに重労働なのでその日は仕事に行けなかったり、人によっては2〜3日休む人も。精神的にもきついですが、肉体的にもかなり消耗してヘトヘトになったストレスフルな治療でした。
次に40代で再トライしたときは、医学がすごく進歩していて麻酔も使えるようになっていました。目が覚めたら「あ、終わってた?」みたいな感じ。午前に病院に行ったら午後には仕事ができたんです。

30代前半で治療を始めたときは、隠しているつもりはなかったんですけど、あまり大きな声で言うべきじゃないんだろうなっていう感じでした。当時はテレビで公表する人なんて皆無だった時代です。あるとき、久米宏さんの番組で不妊治療のことを聞かれて、それが反響を呼び、雑誌などのメディアの皆さんから一斉に取材を受けました。治療をしていたのはもちろん私だけではないけれど、オープンにしている人が他にいなかったこともあって、不妊や不妊治療に関する悩み相談のような連載を始めました。私自身は仕事が忙しかったこともあって、治療は中断。今思えば、あのときもう少し粘っていたら、と思います。

30代の治療時はいわゆる顕微受精に抵抗がありました。顕微受精はドクターの経験値と判断、機械的分析など、第三者のセレクトで受精卵になるわけです。そうして生まれた子どもが万が一、人様に迷惑をかけるような人間に育ったら? と考えてしまって。芸能界は誘惑の多いところですから、両親ともに芸能の仕事をしている家庭で育った我が子が手に負えないような人間になってしまったら。人間ってどこか自分の都合のいいように考えがちですから。もし将来、そんな状況になったら、〝なぜあの先生は、あの時この精子を選んだのか?〟という逃げ口上にしてしまうかもしれないと思ったんです。もちろん遺伝子は私と太田のものなので、そんな責任転嫁がおかしいんですが(笑)。変なところまで考えてしまってバカみたいですよね。

30代では一度に8〜13個採取できていた卵子が40代になると2〜4個に

ブランクを挟んで2回治療した私だからわかることなんですが、30代と40代では明らかに採取できる卵子の数に差があります。30代の時は一度に8〜13個採取できていたのが、40代になると正常に育ちそうな卵子は2〜4個に減っているんです。これはシビアな現実でした。
一方で、細胞分裂している途中で凍結した受精卵は“フローズン”されるのですが、その前に細胞分裂をしている写真を見せてもらうと、もうすでに“ひとつの命”なんです。それにはぐっときましたね。

代理出産への精神的、経済的なハードルはあまりに高い

40代になって治療を再開した際には採卵は3回、それでダメなら治療は終わりにしようと決めていました。もし今後展開が変わって「産む」ということがあるとすれば、それは代理出産を選択するということ。この問題はなかなか難しくて、ちょっと及び腰。

ただ一般的な視点からいうと、ここまで少子化が進んでしまうと、ある程度日本もちゃんと考えていかないといけないなとも感じています。今日本では代理出産に関する法律が定められておらず、日本も親族内であれば認められているのですが、現実的には海外で行うしか手立てはありません。それも高額な費用がかかります。代理出産自体にお金がかかる国と、その行為に対しては取らないけれど保険や弁護士費用などで莫大なお金がかかったりしますから、なかなかハードルが高いですよね。でもそれで子どもが増えていくのであれば法律や政策で援助した方が良いんじゃないかな。

一時期は、不妊治療に助成金が出ていました(2016年度~2022年3月31日まで)。でも、それは妻の年齢が42歳まで、という年齢制限つきでした。その年齢って誰が決めたんだ? ちょっと失礼じゃない? と思いましたね。そんな政策だから少子化が加速するんじゃないか、と。今は人工授精、体外受精、顕微受精が保険適用になって、助成金は廃止になりました。こういう面ひとつとっても日本は世界から見ると少しずつ遅れている気がして、モヤモヤします。

不妊治療にあたって何よりも大事なのは 夫とのコミュニケーション

治療にあたって何よりも大事なのはまず夫と話し合いをするべきだということ。男性は基本的に不妊治療というものを今ひとつ理解してくれていない部分があるので、まず真正面から向き合って話すことが大事です。治療中、女性の方は肉体的にも精神的にもかなりハードです。着床の結果を祈るような気持ちで聞きに行って、結局ダメで、そんなときに夫に「どうだった?」みたいに軽く言われてカチンときたことも(笑)。だって着床しなくていちばんショックなのは私ですからね。「どうだった?」って聞き方は軽すぎやしませんか? もちろん本人には悪気がなくて、純粋にどうだったかって聞きたかったっていうだけなんだけど、言葉選びが無神経で雑すぎます!(笑)
だから合言葉、じゃないですけど、着床の結果はあらかじめ言葉を決めておくのがいいんじゃないかな。例えば、着床していたら家でご飯を食べる。してなかった場合、美味しいもの食べに行こう、という電話をする、とかね。夫も余計なことを言って地雷を踏まずに済みます。
また、妻の方も自分で自分をいたわる方法を見つけておくことが大切。次のチャンスを考えたら栄養を取って、できるだけ早く回復を促さないと、精神バランスも崩してしまいます。だから、私は着床しなかったらエステに行くことにしていました。エステは着床してないからこそできるリラクゼーションですから。

結局、私たちは受精卵を2個持ったまま、時間を止めて今に至るわけですが、いざ、らんちゃんとらんらんちゃんを子宮内に移植する勇気がまだ持てていないというのが現状です。もしも代理出産を進めたとして、途中でダメになることもあるわけですから、そうなると可能性が断たれてしまう。今受精卵は私の生きる張り合いのような存在なので、いなくなるのがすごくきつい。2つの受精卵は心の支えにもなっているんです。
このままいくと、もしかしたら私が死んだ時に一緒に棺に入れてもらうかもしれませんね。

撮影/河内彩 ヘア・メーク/清水寛之 取材・文/柏崎恵理

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