篠山紀信さんが46年間ヌードを撮り続けた伝説…水沢アキさん・波乱万丈の人生をふり返る!
写真家の篠山紀信さんが、46年間にわたってヌードを撮り続けた水沢アキさん。元祖グラビアアイドルは、42歳でヒップホップを、55歳で筋トレを始め、70歳とは思えない若々しさと美しさを今も保っています。そんな水沢さんが半生を振り返り、80代に向けて掲げる目標も明かしてくれました。
◆水沢アキさんの秘密
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元夫は今でも最高の男性。 だから再婚しませんでした

《Profile》
1954年東京生まれ。’72年に主演ドラマ「夏に来た娘」で女優デビュー。テレビドラマを中心に舞台、映画に多数出演。頭の回転の速さ、行動力と明るさから「連想ゲーム」や「なるほど!ザ・ワールド」をはじめ、司会、コメンテーター、リポーター、講演など幅広い分野で活躍。現在は通販番組「イチおし!プレミアム」の司会を務め、下北沢でレンタルスタジオも経営。「派手さはないけれど大のお気に入り」というワンピースは、森光子さんから譲り受けた小紋をリメイク。
17歳でデビューし、いきなりドラマ主演。そして当時大人気だったNHKの「連想ゲーム」でブレイクしました。でも、昔から英語が好きで、本格的に学びたい気持ちが捨てきれず、24歳で休業。UCLAに留学しました。ところが、あんなに英語に自信があったのに、とんでもない劣等生。英語の壁って厚いし高いし、なんてうぬぼれていたのかと反省しました。結局3カ月で挫折して帰国。でも、ものは考えようで、たった3カ月の休業だったので、何事もなかったように復帰できました。大切にしていた「連想ゲーム」には戻れませんでしたが、民放のドラマやラジオなどにたくさん出させていただき、新たな世界が広がりましたね。
そして30代初めに、元夫のガイ・スイーヒと出会いました。英語の教材会社の新商品発表パーティで、彼は副社長として初来日中。私は英語ができる女優として招かれていました。その日は挨拶程度でしたが、後日そのときの写真を受け取るために再会して交際がスタート。彼はニューヨーク育ちで、私の理想の結婚相手だった「顔良し、頭良し、都会人」の三拍子に加え、タバコを吸わないという条件をすべて兼ね備えた人。即決で結婚しました。
私は昭和の女優でしたから、お料理はまったくできなくて、お刺身をパックのまま出すとか、夕飯は枝豆と冷や奴だけとか、今思い出しても恥ずかしい妻でしたが、彼は稼ぎはいいし、家庭のこともやってくれる。会社から帰ると、スーツを着たまま気になる場所を雑巾がけしたり、私が風邪をひいたらチキンスープを作ってくれたり、優しい人でした。
お互い仕事も順調で、長男長女を出産後は家族で育児雑誌に出たり、夫婦でトークショーなどにも出演しました。
ガイはどんどん出世し、仕事が上向けば上向くほど、私が妻でいることを望むようになりました。撮影本番の日に子どもが熱を出しても、当時の女優なら当たり前に仕事を優先する時代。でも彼はそれが許せない。アメリカ人なら家族ファーストが当たり前なんです。そうやって少しずつ夫婦間のズレが出てきてしまって、離婚を考えるようになりました。彼は断固拒否したけれど、私は仕事命だったし、仕事を辞めて彼だけを支える人生は考えられなかった。38歳で離婚が成立。親権は私に譲ってくれました。
でも、今でも私にとってガイは最高の男性。理想の人であることに変わりはありません。その後お付き合いした方もいましたが、ガイを超える人には出会えず、再婚もしませんでした。
悪いことは重なるもので、離婚と同時にバブルが弾け、4軒ほど持っていた不動産のローンで6億5千万円もの借金を抱えてしまい、シングルマザーになってからは必死で働きました。子どもたちは離婚直後は小学生だったので、仕事と子育ての両立は大変。撮影が入ったらどこに預けるかで四苦八苦。睡眠は3時間程度で、少しは寝られると思っても、夜中に子どものズボンの裾上げをして、徹夜で仕事場に行くなど、肉体的には疲労困憊していました。躾は相当厳しくして、未だに子どもたちから「忘れられないくらい怖かった」と言われています。今も口をきいてくれない時期があったりしますが、長男はニューヨークで舞台俳優、長女はアーティストとして、それぞれ自分のやりたい道に邁進しています。原宿駅前のスタバ店内の壁画は娘の作品なんですよ。何より2人とも周囲の方々に愛されて幸せにやっていて、そんな姿を見ると、我ながら厳しくしつけた甲斐があったかなと嬉しいですね。
ヒップホップは42歳から 筋トレは55歳からスタート
子どものころから体を動かすことが大好き。日本女子体育短期大学に入学して、よりスポーツの楽しさを知り、長年ジャズダンスを続けてきました。
42歳のとき、元夫が子どもたちにニューヨークのサマースクールを体験させたいというので同行し、その間私はブロードウェイダンスセンターに3週間短期留学。シアタージャズを習ったのですが、最終日前日に受けたヒップホップがあまりに楽しくて、以来年2回のニューヨークに加え、日本でも2カ所のスタジオでヒップホップを習いました。雨の日や寝不足など、レッスンに行きたくないときも、この先生のレッスンは今日しかないからと自分を鼓舞し、コロナ禍の前まではとにかく続けました。結果、代謝が悪くなる40代以降もまったく太らない。お腹に脂肪がつくこともなく、好きなファッションを存分に楽しむことができました。
55歳からはトータルワークアウトに週に1回通い、パーソナルトレーナーと筋トレを続けています。トレーニングの前後各10分間はマッサージを受け、体を整えてくれるシステムで、ダンスとは違う部分の筋肉がつき、より体型が整ったように思います。
コロナ禍が明け、ダンスレッスンを再開しましたが、先生をネットの紹介だけで選ぶシステムに変わり、実際の先生の顔の雰囲気とレッスン内容が全然合わない。何としてもこのレッスンを受けたいと思える先生に出会えず、今は足が遠のいています。そうするとお腹が出始めて……。ダンスって大事だな、日本でいい先生を探そうかなと思い始めている今日この頃です。
40代のころの私

シングルマザーで子育てと仕事を両立させていた40代は、肉体的にも精神的にも疲労困憊状態。上は、篠山先生に撮影していただいた40歳のころ。忙しく睡眠もとれていなかったけど輝いていたなあと思います。当時小学生だった子どもたちと協力して頑張っていた時代。家族写真は、年賀状用に毎年ホテルの写真館で撮影していました。
70歳は終わりの始まり。ここからがスタートです
還暦を迎えたら、何か新しいことをしたいと思っていたとき、長年ヒップホップのレッスンに通っていたダンススタジオのオーナーから経営権を譲りたいと言われ、買い取りました。スタジオ経営は順調で、儲かると言われたのですが、蓋を開けてみたら大赤字。60人以上のスタッフを抱え、人件費だけでも大変な支出。スタッフとのコミュニケーションもうまく取れず、騙された、厄介なものを抱えてしまったと目の前が真っ暗になりました。ここで辞めて借金を背負って生きるか、このまま続けるかと考えたとき、私が長年芸能界で生きてきて得たことは、努力すれば何事も叶うということ。だったら逃げるより一からやり直そうと、ダンススタジオを潰してレンタルスタジオに。人を雇う余裕はなかったので、スタッフはホームページ担当の1人だけ。あとは電話応対や受付、予約の管理から掃除、経理まで私1人ですべてこなし、7年経ってようやく軌道に乗り始めたところです。
振り返ると、驚くほど苦しいことも辛いこともいっぱいありました。でも、私はどんなときもポジティブシンキングです。いつも元気でいるよう自分に言い聞かせ、心がけています。 大先輩の森光子さんから「アキちゃん、できなかったことは100回やりなさい。台詞が覚えられなかったら100回言いなさい。必ずできるようになるから」と、見えないところで努力することを教えられ、これまでそうやって生きてきました。
昨年70歳になり、今まで10できていたことの3つもやったら疲れるようになりました。「激落ちくん」で掃除をしていても、すぐに指が痛くなっちゃうし、ひざまずくと膝が痛いし、明らかな変化を感じています。でもそれはネガティブな意味ではなく、終わりの始まりだと思っています。ここからが人生の終末のスタート。私、最高の亡くなり方をしたい。赤ちゃんは泣きながら生まれてくるけど、最期は幸せな人生だった! と笑って死にたいです。
実はもうどこの施設に入るかも決めています。私の生家は目黒区駒場で、生まれたのが日赤病院。だから、できればその近辺で最期を迎えたい。ちょうど見つけた施設の入居料が年齢を経るごとに安くなって、82歳からは頑張れば払える金額なんです。そこでは自立性を見られ、車椅子NG、認知症でも入れません。だから、何としても運動を続け、自立して、それに向けてまだまだ稼がないといけない。理想のホームで、いつでもプールで泳ぎ、癒しのお風呂に浸かって、35階の食堂で富士山を眺めながら食べる朝ごはんを実現するため、まだまだ働きますよ。
水沢アキさんが40代に伝えたいこと

ありきたりではありますが、努力と感謝を忘れずに。そう自分にしっかり言い聞かせたうえで、40代で頑張れば50代に、50代で頑張れば60代に……その先もきっと輝かしい未来が待っています。
2025年『美ST』6月号掲載
撮影/吉澤健太 ヘア・メイク/遠藤康弘(アンダートゥリー) 取材・文/安田真里
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