「ママは何になりたかったの?」母たち自身の幸せのカタチとは…【中学受験小説連載】
【前回まで】グッドマザー賞に選ばれたというマネージャーからの知らせに上機嫌で愛犬と散歩に出たエレナは、娘・沙優を塾に迎えに行く美典とバッタリ会う。そして、個別塾に通わず息子・類と同じクラスに上がったという沙優と美典に嫉妬を覚える。一方、美典は塾代に加え中古でコピー機を購入し、お金と時間の工面に焦りを感じる。夏の天王山を前に母たちはどこか気持ちがザワついて……。
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【第十七話】 小6・6月
第一志望 自由が丘国際学院中学校一回目 50%
第二志望 青明女子中学校一回目 50%
第三志望 自由が丘国際学院中学校二回目 30%
第四志望 渓星大学第一中学校一回目 80%
第五志望 優華学園二回目 80%
第六志望 桜鳳中学校 20%
「六年生のこの時期に50%取れているのはすごいことだから、自信を持っていいよって、篠崎先生が」
沙優は、夕飯に揚げた小海老とおかひじきのかき揚げを食べながら嬉しそうに報告する。よほど誇らしいのだろう。帰宅してからずっとその話ばかりする娘を見ながら、美典も高揚感を覚える。
啓明セミナーのはじめての合格判定が出る模試の結果は、数日前にネット上にアップされた。美典も穴が開くほど確認していて、もはや暗記している。
四教科59.1
一番よかった国語が66.4。その次によかった社会は59.5だった。もっとも悪かったのは理科で52.3。
目を見張ったのが苦手意識を持っている算数で、58.2。一年前の啓明セミナーの実力判定テストでは偏差値50を切っていたのだから、四教科の中でもっとも伸ばしていた。
「すごいよ、沙優。自由が丘国際が射程圏内だなんて」
「ワンチャン合格できる?」
「篠崎先生が自信を持っていいって言うのはそういうことよ。もちろん、この結果で気を緩めたらダメだけど」
「うわー噓みたい」
美典も同じ気持ちだ。望外の結果だった。中学受験をはじめた頃、美典の中で漠然と第一志望校として考えていた渓星大学第一中学校はすでに合格圏なのだから。女子のトップ校である桜鳳中学校はさすがに20%だったが、そもそも半分冗談で志望校として登録したのでもはや笑いのたねだ。
シビアに受け止めるべきは、自由が丘国際の一回目で合格できなかった場合、二回目の受験はかなり厳しい戦いになるということ。自由が丘国際の二回目は二月四日の午前中に行われる。自由が丘国際を第一志望にしていて一回目で合格できなかった子たちはもちろん、御三家が残念な結果だった優秀層も多く受験するため、偏差値も倍率もぐっと高くなるからだ。
「うちのクラスの子にも、自由が丘国際に行きたいって子がいるんだよね。その子、ガチで頭いいんだ。鉄アカ生で、上のほうのクラスみたい」
夢から現実に戻ってきたように、沙優は言う。
「このあたりは、近いから志望する子が多いだろうね」
「その子とは別にもう一人、自由が丘国際に行きたいっていう子がいるの。その子も鉄アカなんだって。前は親友みたいだったのに、いまは同じ中学校を第一志望にしているからか、成績を比べたりして微妙になってるみたい」
成績を比べてトラブルになりやすいので、テストの結果や志望校を教え合わないようにと、塾の保護者会でも口酸っぱく言われている。それを子供にも伝えているものの、完全に禁じることは難しい。
「あたしさ、あの塾でよかった。同小で、女子は沙優だけだから気楽だもん。それに類くんみたいな秀才だっているから、頑張れるし」
ごちそうさま、と沙優は手を合わせ、食器を流しに持っていく。
去年欲しいとせがまれて買ってあげたチップとデールのTシャツが少しきつそうだ。まだ初潮ははじまっていないけれど、この一年で背が伸びたし体型も女性らしく丸みが出てきた。
「中学生になったら半分大人だね」
知らないうちにどんどん成長していく姿が眩しくて、寂しくもある。そんな親心など知らない様子で、そうだよ! と沙優は気取ったように顎を上げてみせる。
「ねえ、ママ。自由が丘国際に入ったら、将来は何になれるのかな?」
「将来? 何でもなれるんじゃないの。沙優はあるの、憧れる職業とか」
「ママは何になりたかったの?」
美典の質問には答えずに、沙優は訊き返した。
「そうねー」
正直、美典はこれまで何かに強く憧れることも、目指そうとしたこともなかった。最近、タチの悪い客に理不尽なクレームを入れられて凹んでしまい、どうして自分はここで働いているのか改めて考えたことがあった。香代との関係もいいし、やりがいがないこともない。ただ、どうしてもやりたくてやっていることではない。生活費の足しにするために、自宅から通いやすくて、働く時間が都合のいいところで働いている。それだけだ。そう考えると同時に、自分がこれまでの人生で、夢を追ったことがないことにも気づいた。
「誰でも知っているような大学に入って、有名な会社でバリバリ働けたらかっこいいなと思ったことはあったけど、それくらいなんだよね。だからこそ、沙優には素晴らしい教育環境の中、いろんな刺激を受けて、自分の将来について考えてほしいんだよ。沙優がこんなふうになりたいなっていう夢を持ってもらえたら、ママは嬉しいんだ」
「じつはー」
「なあに?」
「内緒にしてほしいんだけど」
もったいぶってそう言い、沙優は冷凍庫を開ける。ストックしてあるアイスを取り出すと、美典のほうを振り返った。
「内緒にするから言ってよ」
「絶対に誰にも言わないで」
「わかったってば。」
「あたしね、類くんのママ、尾藤エレナさんみたいなキャスターになりたいんだよね」
予想していない回答を聞いて、美典は目を丸くしたが、よくよく嬉しくなって大きく前のめりになった。
「いいね! うん、すごくいいよ!」
「類くんのママが有名人だっていうから検索したの。ニュースを読んでる動画がたくさんあって、かっこよかったんだよね。でも、キャスターって頭がよくないとなれないよね? いい大学に入らないと無理だよね? 類くんのママって東大?」
「ううん、上智大学よ。大学在籍中に日の出テレビの学生キャスターに選ばれたんだって。就職活動もして、何局か内定をもらったけど、慣れている日の出テレビに決めたみたい。上智大学も優秀よ。それにエレナさんみたいなかっこいい女性がたくさんいるイメージ。沙優に合うと思う!」
「ほんとに? あたしなんかが、ニュースを読んだりできるかな?」
「あたしなんかって言わない。いまから頑張れば、何にもでなれるんだから。ポジティブな言葉を使うと、その現実を引き寄せるんだって」
「そうなの?」
「そうよ!」
美典が断言すると、沙優は嬉しそうな笑顔でチョコレートのアイスバーを頰張った。

—
ホームパーティーは好きだし、お呼ばれすることも多いのに、意外にもベビーシャワーというものに玲子が参加するのは、これがはじめてだった。
妊婦さんを囲む安産祈願のパーティーとして、タレントやインフルエンサーが開いているのをインスタで見ていたから、どういうものなのかはイメージできていたつもりだった。そして案の定、想像を超えるようなことは何もなかった。ベビーフード当てゲームというのは、はじめて見聞きするもので、パッケージを隠したベビーフードを食べて何味なのかを当てるというものなのだが、へえ、そんな遊びがあるのかと新鮮に感じたものの、楽しかったかというと、そうでもない。
とはいえ、幼稚舎の同級生のママたちとの集いである。いかにもインスタ映えする華やかで楽しげな雰囲気を壊さぬように、玲子は笑みを絶やさない。

パーティーが終盤になり、インスタにアップできるようなバルーンいっぱいの集合写真も撮られると、予定があると帰る者がいて、玲子もタイミングを見て帰ろうと思う。そんなことを考えていると、今日の主役である森野聖子が近寄ってきた。
「玲子さん、今日はおいでくださってありがとうございました。一度ゆっくりお話ししたいと思っていましたから、とてもとても嬉しくて」
白いどうだんつつじの花冠を頭に飾ってもらい、真っ白なマタニティドレスを着ている聖子はさながら女神のようである。三人目を妊娠中で八カ月のようだが、痩身のせいかさほどお腹が大きく見えない。インスタで一万人以上のフォロワーがいるので、見た目には気を遣っているのだろう。
「こちらこそ。素敵なお宅にお招きいただいて、楽しいみなさんと聖子さんとベイビーのお祝いできて幸せだわ」
さっさと帰りたいと思っているとは言えないが、素敵なお宅というのは本心だった。都内屈指の高台邸宅地である池田山の低層レジデンスの一室は、リビングダイニングだけで、玲子の自宅の一階ほどの広さがあった。さらに広いウッドデッキのバルコニーと繋がるようにデザインされていて、とても開放感がある。三階建ての二階だが、マンション自体が高台にあるので窓からの眺望も素晴らしいものだった。
「菜々美さんが、玲子さんにも声をかけてみましょうかって仰ってくれて、ぜひぜひ! ってお願いしたいの」
「あら、そうだったの」
この会を企画した間宮菜々美とは入学してまもなく親しくなり、同じ料理教室に通っていたこともあるが、玲子と聖子はほとんど接点がなかった。
――花音ちゃんママの森野聖子さんって覚えてる? 彼女のインスタを教えたことがあったでしょう? 彼女、玲子さんのことを存じ上げていたの。ひそかに玲子さんに憧れているんですって言ってたわよ。
菜々美はそう言ってこの会に誘ってくれた。リップサービスとして受け取っていたが、案外お世辞でもなかったのか。
「玲子さん、いつもおしゃれだから、保護者会などでお見かけする時には必ずファッションチェックしちゃったりして…… 今年の四月に持っていらっしゃったバッグ、ボッテガの新作でしょう」
「ああ、そうね」
「わたくしもほしいと思っていたの。玲子さんがお持ちになっているのを見て、やっぱり欲しいと思って買ってしまったのよ」
「あれ、いろんなコーディネートにも合うし、いいわよね」
「そうなんです。それに、去年だったかしら、鮮やかなブルーのコートも…… やだ、引かれちゃうかしら」
まだ三十半ばほどの若くてきれいな聖子にそう言われて、玲子はまんざらでもない。
「嬉しくて変な汗が出てきちゃった。菜々美さんに感謝しないと」
玲子の言葉を聞いて、聖子は真摯な表情で頷いた。
「菜々美さんにもだけど、言霊にも。玲子さんと親しくなりたいって言っていたら実現したんですから」
「言霊?」
突拍子もない単語が出てきて、思わず笑いながら聞き返した。すると、ごめんなさいね、と聖子も気恥ずかしそうに笑った。
「やだ、ますます変な人だと思われてしまいそう」
「思わないけど、聖子さんみたいな若い方の口から出てくるのは、ちょっとおかしくて」
「わたくしの実家、このマンションの近くにあるんですけど、曽祖父は男爵だったんです」
「男爵って、華族の一つの? すごいわね」
なるほど。聖子から漂う俗世離れした雅な雰囲気は、出自のよさによるものなのかと納得できた。
「それがすごくないんです。父なんて、没落貴族だと申しております。戦後にいろいろと売り払ったもので、たいした財産も受け継がなかったようなんですけれど、ただ一つ、曽祖父が言霊信仰をしていたので、わたくしの父も、それだけは受け継ぐようにしていて、わたくしも信じるようにしているんです」
「言霊信仰? それって、どういうものなの?」
「言葉には霊力が宿っていて、自分の言ったとおりの現実になるから、日頃から発する言葉には気をつけるように、という教えというのかしら。言葉はその人自身をも作り出すので、尊厳のある人物になるためには、それにふさわしい言葉を口にするべきである……ノブレス・オブリージュみたいなことでもあるんですよね」
「へえ、素晴らしいわ」
「わたくしもたいして理解できていないくせに、なんだか偉そうですよね。単純なことで、そうなってほしいことを言い続けるようにしているだけなんですけど、本当に力があるなと感じているんですよ」
「そうなのね。たとえば?」
「すぐに思い浮かばないけれど…… そうだ、三人目がほしかったけれど、なかなか授からなくて、それでも諦めずに言い続けていたらこうしてお腹に来てくれましたでしょう」
心からそう信じているようで、聖子は泰然として微笑んだ。
「幸せね」
「ええ、言霊に感謝ですわ。玲子さんとも仲良くなりたいと言っていたら、こうして実現しました」
共通の友人である菜々美にしつこく言い続けていたら、遠からず叶いそうなことで大袈裟な気がしたが、言霊信仰というのはいいように玲子も思えた。男爵の曽祖父を持つ家柄で、高級マンションで優雅な生活を送り、上の娘二人とも幼稚舎に入れている聖子が言うのだから、説得力もある。言霊の力だとしたら、相当なものだろう。
帰宅すると、莉愛が待ち構えていた。すぐに夕飯の準備をしなくてはならず着替えるのにクローゼットに直行すると、莉愛が後ろからついて来て話しかけてくる。
「ねえ。花音ちゃんの赤ちゃん、妹だった? 弟だった?」
聖子のお腹の子の性別が気になっていた莉愛は訊く。
「わからないみたいよ。性別は聞いていないんだって」
「なーんだ。花音ちゃんの言うとおりだったのか」
「どうして、そんなに知りたいのよ」
「気になるじゃん。花音ちゃん、赤ちゃん楽しみって自慢するんだもん。莉愛も、妹がほしくなっちゃった」
「ええ?」
思いもよらないことを言われ、玲子はワンピースを脱ぎながら顔をしかめた。
「弟でもいいけど、できたら妹かな。でもパパって、最近家にいないよね。赤ちゃんは難しいかな」
そう言われて、さらに玲子は顔を歪ませた。この子は生命誕生の仕組みをどこまで知っているのだろう。小学三年生ともなるといろんなことを知っていてもおかしくないし、いまどきはインターネットという何でも教えてくれる先生までいるのだから。
「さあ……どうだろうね」
掘り下げて聞きたいような気持ちがありつつ、玲子は曖昧にそう言って聞き流した。
つばきとの不倫を突きつけたあの日から翔一とはほとんど言葉を交わさなくなり、日に日に溝が深まった。そして、何を思ったのか、先週、翔一は池尻大橋にあるウィークリーマンションを借りてそちらに住むようになった。自分の非は認めるものの、玲子がGPSをしかけて尾行したことがどうしても許せないと翔一は言った。
なんて傲慢なんだろう。そんなことをさせたのは自分のくせに。
年齢的に妊娠を望むのは厳しいが、それ以前に、スキンシップはおろか会話すらできていなかった。つばきとは別れると言っていたが、家を出たいま、いくらでも愛人に会うことができる。まさかこのまま別居、離婚まで考えているのだろうか。冗談じゃない。絶対に離婚してやらない。
そうだ、言霊信仰をすればいいのか。
「莉愛、赤ちゃんが来てくれなくても十分に幸せじゃない」
「そうだけどさ」
「優しくて誠実なお父さんは、誰よりも莉愛と真翔、そしてお母さんのことを愛してくれているんだもの。お父さんは最近忙しいけれど、それも愛する家族を支えるために働いてくれているからなのよ」
「そうなんだ」
「ありがたいわよね。あんなに素晴らしいお父さんに愛されて、本当に幸せ者だわ」
自分の言葉に鼻白みそうになったが、言い切ってみると、不思議と心が温かくなったように感じられた。これが言霊の力なのだろうか? 実感が伴わない多幸感を覚えて、玲子はおかしくなって笑ってしまう。
(第十八話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年7月号掲載時のものです。
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