スプリングバレー社長・井本亜香さん キャリアが変遷していったのは、自分にできる仕事を求め続けた結果
女性としてこれからのキャリアについて悩むSTORY世代。’22年に女性活躍推進法が改定されてからはますます女性の活躍が期待され始め、徐々に女性管理職比率も高くなってきています。個人として評価され活躍される女性リーダーの方々には、キャリアの狭間で自身の生き方を見つめ、可能性を信じてチャレンジする姿がありました。今回ご登場いただくのは、スプリングバレーブルワリー株式会社にて代表取締役社長をされている井本亜香さんです。生まれ故郷の四国から東京、九州、そして東京へ。どんな場所や境遇でも「自分ができること、すべきこと」に邁進する。そんな彼女のSTORYをご紹介します。(全3回の2回目)
井本 亜香さん(53歳)
スプリングバレーブルワリー株式会社 代表取締役社長
四国学院短期大学卒業後、1991年キリンビール株式会社に入社。2003年六本木ヒルズ開業とともに当社ハートランドビールのアンテナショップである「Bar HEARTLAND」の立ち上げ、現場運営に約2年携わる。その後、キリンビール㈱マーケティング部でビール・チューハイなどの既存ブランドや新商品開発を担当し、2018年より営業を経て、2023年スプリングバレーブルワリー株式会社 代表取締役社長に就任。
四国支社で培った経験を、より大きなフィールドで生かしたい。経験を携え、いざ新天地へ!
STORY編集部(以下同)――正式入社日よりも、前倒しでインターンとして働くことを開始されましたが、どのようなお仕事をされたのでしょうか?
1月頃から情報チームという部署でお手伝いを始めました。今でいうマーケティング部です。特約店から情報収集し、それを加工して営業活動に役立つ資料を作成するという部署です。仕事を覚えるだけではなく、得意先とも話す機会が多く、もちろん資料を共有する営業とも連携しなくてはいけない。大変ではありましたが、おかげ様で、入社するときには、ほぼ社員の皆さんのことは知っていました。会社という環境にも、そこで働く人たちにも入社前には馴染んでいたという環境を作っていただけたことはありがたかったです。
――現在は東京勤務ですが、四国から東京へ異動されたきっかけとは? 辞令ですか? それとも自ら何か行動をされたのでしょうか?
入社して3年目。日々変化していく情報への対応力も身についてきた頃、勤務時間内よりももっと早く仕事が終わってしまうようになってきたんです。自分自身この状況は良くないと思い、異動したいという話を上司にしたんです。ただ、当時はすでに中堅どころとしてお仕事させていただいていたので、そう簡単には異動させてもらえるはずもなく……しかし行動せずにはいられず、社内公募に応募するという手段に出たんです(笑)。とにかく今とは少し違った部署にと考え、広報誌にエントリーしたんです。残念ながら通らなかったのですが……ただ、この行動によって、私の異動したいという気持ちの本気度が会社に伝わったんですよね。
――20年以上前のことですよね。当時はすでに「公募」という制度が社内に存在していたんですね。
はい、部署異動だけでなく、留学なんかもありましたね。今思うと、私が東京にたどり着くまで、会社からの辞令はほとんどなく、常に自らの意思を会社側に伝えたり、公募といった制度を利用してきたと思います。結果的にやりがいのある場所へ異動させて頂きました。さすがに社長職は違いますけどね(笑)。四国支社時代は人が少なかったこともあり、入社したての頃から挑戦する機会を沢山いただけました。定型業務ばかりでなく、企画や実行リーダーなどを任せてもらえたり、いろいろな人と仕事をするようになって、出来ることが増えていくと同時に仕事の面白さを感じていました。ただ、これらの経験を持って全国で働けたらもっと楽しいだろうと考えるようになってきたんです。
――そして、そこで再び「公募」ですね!
そうなんです(笑)! その時は、人事コースの変更制度ができたんです。地域採用から全国採用に変更ができるという制度です。まさにこれだ! と思って、すぐにエントリーしました。
――そしてすぐに東京に異動という運びになったんですか?
すぐにはできませんでしたね。ちょうど制度ができたときは、四国支社内で部署異動したばかりだったことと、この制度は全国転勤の社員が優先で、チャンスがあれば地域採用の人も入ることができるという制度だったんです。私は地域採用ということもあり、希望の異動辞令をいただくのに時間がかかるだろうということでした。ただ、その時のリーダーが「絶対異動させてやるから、それまでは今の職種でできることをやれ」と言ってくれたんです。その一言があったので、辞めずに踏ん張ることができました。異動するまで少し時間はかかってしまいましたが、私のキャリア変遷は自分にできる仕事を求め続けた結果だと思います。
そして30歳。いよいよ東京でのキャリアがスタートしたのです。
(後編に続く)
撮影/BOCO 取材/上原亜希子
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