夜遅く帰宅すると鍵を閉めてしまう亭主関白夫が、料理を作って待っていてくれるように変わった理由とは・・・
封建的で頑固な夫は世界各地、どこにでもいます。この人種と結婚した妻は一生我慢しなくてはいけないのか……。そんなことはありません。今月は夫が40代で変わっていった貴重な実話をお届けします。
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夫も変わる
◯ 話してくれたのは...岡崎朋実さん(仮名)
兵庫県生まれ。大学卒業後大手商社に入社。3年間勤務し退社後結婚。37歳で英会話スクールを経営する会社に再就職し7年間勤める。45歳で英会話スクールを起業。現在は近畿地方に5校を展開している。岡崎朋美さん似の甘顔美人。
夫 神奈川県生まれ。大手商社勤務。スポーツが得意で多趣味。ゴルフ・野球・テニスなど仲間と楽しむ一方で、テレビでのスポーツ観戦も大好きなスポーツマン。
平日は夫も私もそれぞれの仕事に邁進し、週末は予定を合わせて映画を観たり、家でのんびり過ごしたり、普通だけど、とても自由に過ごしています。昨年銀婚式を迎えましたが、今は何の心配事もなく本当によく眠れるようになりました。
大学卒業後、大手商社に入社し3年目の春から上司だった夫と交際が始まり翌年3月に結婚しました。夫は真っすぐでねじ曲がったところがない人。自分の家族を大切にしている人で、良い家庭が築けると思いました。
当時、社内結婚の場合、どちらかが転勤になる決まりがあり、私は円満退社。さして不満もなく、でも出産までは働きたくて、電気会社に転職し仕事を続けました。思いがけず半年後に早々と妊娠退職し、25歳で長男、26歳で長女を出産しました。長男が5歳で、夫が海外転勤になり、家族4人で2年間をアメリカで過ごしました。
夫の性格は亭主関白で封建的。頭の中は古くて、妻は夫が帰る前にお風呂を入れて食事の支度をすべきで、とにかく女は家にいろタイプ。女友達と出かけることもいい顔しません。結婚するときも彼の希望で、子供が中学生になるまでは子育てに専念することを約束させられました。
でも経済力もあり、家族を守り、不満もなかったんですが、私は何か仕事をしたいという気持ちはずっと持ち続けていました。帰国後は長男・長女とも中学受験をし、第一志望の学校に入学。それで長女の受験が終わった日に、ネットで求人募集を探し、英会話スクールの会社に正社員として就職が決まりました。約束も果たしていたので、夫もしぶしぶ許可してくれましたが、パート程度だと思っていたようで、フルタイムと聞いて驚かれ、「子育てと家事は今まで通りすること」と念押しされました。
その年の4月から、5時半起きでお弁当・朝食を作り、洗濯をして、家を7時に出発。お休みの日も常備菜を作るなど、1分も自分の時間がない忙しい生活が始まりました。でも仕事は楽しくてしょうがなかった。徐々に帰宅時間も遅くなり、家族が何も食べないで私の帰りを待っている日が増えてきました。
慌てて支度をしてご飯を食べても夫は機嫌が悪い。そのうち「何をやっているんだ。子供がお腹を空かせているのに待たせるな」「掃除もできていない」と怒り始めました。帰宅が22時を過ぎ、ドアに鍵をかけられ締め出されたこともありました。常にブリブリして、私は怒られて、毎日「会社を辞めろ」と言われ続けました。
彼は自分で夕飯を用意するという発想が1%もないため、遅い時間でもいつも3人がお腹を空かして待っています。もちろん私は「じゃあ、手伝ってよ」と言いたかった。でも、夫の気持ちもわかったんです。当初から働くことを了承済みで結婚していたわけでなく、こんなに働く女性だとは思ってもいなかったわけです。
それまでは何品も夕飯を作り、家を掃除し、飾りつけもして……だったのが全部できなくなって、変わったのは私だったから。だから不満だろうなと理解できたし、一切反抗はできなかったんです。「辞めろ」と言われたら、ちゃんと話を聞いて「そうだね。ちょっと考えるね」と一応考えるけど、仕事は絶対に辞めたくない。だからしばらくは早めに帰る。でもそうもいかなくなってまた遅い帰宅。すると激怒、という生活が繰り返されていました。
腹が立っても耐えて、時が過ぎるのを待つ。でも会社に行けば好きな仕事を思う存分やる、というふうです。折り合いをつけるしかないと思っていました。それに、子供達の前で、母である私が常軌を逸したところを見せて女性に幻滅させたくないという気持ちも強かったんですね。
ところがある夜、忘年会で帰宅が11時半過ぎになりました。今なら午前様もしょっちゅうですが、その時はそんなに遅くなるのは初めてでした。すると家に入れてくれたものの、帰るや否や私の携帯電話を真っ二つにへし折られました。この時ばかりは暴力だと思ったし、わんわん泣きながら、以前から考え始めていた「もう別れよう」という言葉をはっきり言いました。
実は徐々に昇進し、お給料も上がり、1人でも育てられると自信がついた頃だったんです。しかし夫は数日後「そこについては悪かった」と謝りました。しばらく離婚は暗礁に乗り上げ、また同じ状態が続きました。私の忙しさは増すばかりでしたが、次第に状況の方が変わってきたんです。
まず夫がいちばん気にかけていた子育てに結果が出始めました。長男が早稲田大学、長女が一橋大学に入学。これは夫婦で喜び合いました。実は中学受験時も「高校受験でよい」と夫は大反対。でも塾代を私の貯金から出すことで許可をもらい決行。実際通い始めると、公立主義の夫も校風に実際触れることで私立の良さを見直していたうえに2人とも第一志望の大学に合格したことは、私が子育てに手を抜かなかったことを認めてくれることに繫がりました。加えて、夫も忙しさがましになり余裕が出てきました。社会も女性が働くことが当然になり、イクメンという言葉も台頭していた時代です。
子供達のお弁当もいらなくなった44歳、またまた遅くなって冷や冷やして家に帰ったら、忘れもしない豚バラ肉と春雨のお鍋を作って待っていてくれたんです。青天の霹靂です! 雪が降るんじゃないかと驚きましたが、それがとにかく美味しくて感動しました。心から「美味しい」を連発して褒めました。すると「そうだろう」と嬉しそう。それから週1のペースでそのお鍋を作ってくれるようになったんです。その翌年に私が婦人科系の大病を患い入院したことも拍車をかけ、夕飯を夫が作ることが習慣化していったのです。
やがて再就職して7年、私には次にやりたいことが新たに生まれました。7年間のノウハウを生かし、会社を辞め、あろうことか(笑)、その2カ月後に英会話学校を起業。夫は会社勤めより家にいることが増えると勝手に思って、反対はしませんでしたが大間違い。1校目が思いのほか順調で2校目も開校し、どんどん忙しくなり、平日はほとんど夕方までに帰れなくなっていました。
夫はもちろん文句たらたらですが、その一方で必ず夕飯を作って待っていてくれる。「クラシル」のレシピ動画サイトをバイブルに、レシピに忠実に作るのでとても美味しい。掃除機もかけ、洗濯物も干してくれるようになっていました。
なぜ好転したんだろうと今もよく考えるんですが、いちばんは子供が非行に走ることなくそれなりに育ったこと。その後、長男は大手広告代理店、長女も官公庁に何千倍の倍率を打ち勝って入社。子供に与える影響を常に考え、波風立てずに耐えたことは辛かったけど、順調に育つ一因だったと今思うのです。何より夫は、私が強硬にやったことは決して間違いではなかったと改めて思ったようです。
義母にも常に私の仕事の状況を報告して理解してもらっていました。その時に「私が十分にできなくて、●●さんに申し訳ないです。でも協力してくれています」と伝えました。共通の友人と集まる場でも夫を褒めるようにしていましたね。
私は女友達から「止まると死ぬマグロ」と言われるくらいやりたいことを我慢できない強行突破派。それをするなら主婦である限り、何かを我慢しなければいけないのは当然なのでしょう。離婚もありえたけど、新しいパートナーとは絶対にできない共通の話題や友人、そして子供のことなどあまりに多すぎて、やっぱりこの人と今一緒で幸せだと思えるんです。長い時間がかかったけど、夫婦関係も修復し、気づけば経営する学校は5校に増えました。
私たちは年1回のペースで夫婦で旅行に出かけます。今冬は海外にするか、国内にするか今相談中。とはいえ驕ってはいけないと常に自分に言い聞かせ、夫に気を配ることも忘れないようにしています。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2019年掲載時のものです。
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