20年ぶりの2人表紙が実現!高垣さん&畑野さん「懐かしのJJ」対談
STORY読者が青春を送っていた1990年~2000年代の『JJ』。当時誌面で活躍されていた高垣さんや畑野さんも現在は『STORY』のモデルに。『JJ』を愛読していた当時、毎日メイクするのが楽しくて、新作のコスメのチェックも欠かしませんでした。けれどその後、仕事、結婚、子育てで忙しい毎日を送りいつの間にかメイクが義務になり、ルーティンになり、気づけばメイクがおろそかになって……。でも、今回の企画で過去の『JJ』を振り返りながら、メイクの楽しさをもう一度思い出してほしい。そんな気持ちを込めて、当時の『JJ』を限定で復活します!
2001年の組表紙から早20年…
あの時のJJはこうだったよね対談
2人の『JJ』での活動期が被っていたのはそんなに長くないのに、思い出の量はかなり。日々の撮影、スタッフ全員の『JJ』にかける〝愛情〟が濃いから、今でも誌面を見ると当時が鮮明に蘇るようで話し足りなかった高垣さん&畑野さんでした。
畑野
麗子との撮影はやっぱり懐かしいし、何だか落ち着く。
高垣
当時ロマ系(ジルスチュアートなどのロマンチック系)としてひろちゃんとの組撮影が多かったから。本当に懐かしい!当時の思い出が蘇ってくる。今日はそういう対談だったね(笑)。
畑野
ロマ系で思い出したけど、麗子とかなり遠い崖での撮影に極寒の中、ロケバスで2~3時間かけて出かけたよね。覚えている?
高垣
ひろちゃんとの撮影でそれが一番の思い出かもしれない。ロケバスで早朝、というより夜中からの移動。チョコレートを食べながら最初はチョコレートの話で盛り上がっていたけど、そのうち爆睡して。今も会うと美味しいパンの話をしたり、そのへんはまったく変わってないかも!?私たち。
畑野
本当だね! 今さっきも食べ物の話をしていたし(笑)。あの頃、冬に春物撮影は地獄だったよね。今みたいにロケバスさんがジェットヒーターを用意してくれるわけじゃないから暖も取れない。体の芯まで冷えて震えが止まらなかった。
高垣
今みたいにレタッチができないからできあがった誌面を見ると腕に鳥肌が立っていたり、唇が紫色になっていたりすることもあったよね。その崖での撮影も薄手のキャミワンピみたいのを2人で着ていた記憶が。その格好で崖の先端まで震えながら歩いたね。岩がゴツゴツとした長い道のりだったし。
畑野
急に前を歩いていたカメラマンさんの姿が見えなくなってカメラを持った腕が岩場から1本だけ出ていた光景が今でも目に浮かぶよ。
高垣
撮影できなくなるからって、転んでも自分の身を挺してカメラを死守したんだよね、カメラマンさん。今だから笑って話をしているけど結構な危険度だったと思う。
畑野
あの時ばかりはいつもふざけて楽しいカメラマンさんがめちゃめちゃ格好よく見えた! 麗子とのロケと言えばこの日のロケが鮮明に思い出されるかな。
高垣
私も! あの頃の撮影は本当に今考えると過酷だった(笑)。ロケ終わった後にスタジオ撮影が当たり前だったし、てっぺん(24時)越えることも当たり前だったからあまり細かい記憶はないけど、それだけは鮮明。
畑野
光文社のシャワー室でシャワー浴びてロケに出かけることもあったよね。スタッフはもっと寝ていないから、撮影中、サイズの大きな服のウエストを安全ピンで留めるのに一瞬寝てしまってお腹をチクッみたいな(笑)。私は麗子より少しだけ先輩だったから朝、集合場所にモデルのコがたくさんいて。メイクさん1人だと間に合わなくて、後輩モデルは眉とマスカラは自分で描く、みたいなこともあった。あの時代にささっと簡単に描けるアイブロウみたいな便利なものがあったらよかったのに。
高垣
組が多かった印象のひろちゃん、2人の表紙は意外にもこれだけ(ページTOP参照)なんだね。ほかのモデルさんとの組はあったけど、ひろちゃんと一緒というのが嬉しかったの。しかも衣装がいつものように甘くなかったのも印象的だった。
畑野
このポーズは自分たちで考えるというよりはカメラマンさんの指示だったよね。
高垣
2人とも眉に角度が付いていてかなり細い流行りの眉をしているね。
畑野
今見ると時代を感じるね。そう言えば麗子は『JJ』初登場はいつ?
高垣
これまたひとつの思い出で、19歳で『JJ』でモデルをすることが決まった3日後にハワイロケだったの。だから本誌ではなく『HAWAII BOOKⅢ』でデビュー。初めてのハワイなのにチケットだけ渡され、飛行機に乗って空港からロケ現場までも、まさかのタクシーで1人。初めましての挨拶もそこそこに「はい、麗ちゃんこれ着て!」って突然に始まった(笑)。でも合宿みたいで毎日楽しかったな。
今見返しても当時の熱量を思い出してもちょっと胸熱!
畑野
お互いに海外行くこと多かったよね。昔は『JJ』に付録が付いていて丸ごと1冊、ラスベガスとかNYとか。汗が即乾燥するくらいの日にラスベガスの砂漠で撮影していたら、現地の人に「お前たちは死にたいのか、今気温43℃だぞ!」って言われたり、ロケバスから降りる時にコンクリートの地面かと思って足を下ろしたところが一面、尋常でない数のバッタの大群だったり。逸話が尽きない(笑)。あの頃はスタッフも若いから誌面にかける情熱もすごかった!
高垣
本当に!読者の方が誌面を見てくださる熱量もすごかった。細かな誌面の隅から隅までチェックして欲しいものがあるとページの端を折ったりしてくれて。大変だったけど、今思うと本当にいい思い出。学校みたいで毎日楽しかったね。これ語り始めたら永遠に話せる(笑)。こんな短い時間じゃ無理。また20年後今日みたいに楽しい思い出話に花を咲かせられたらいいなぁ!
畑野
「麗子全然変わってない!」「ひろちゃんこそ変わってない!」って今日みたいに誌面を見ながら。2人とも完全おばあちゃんなのに(笑)。
当時のJJをあらわす
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まだ手軽にネットでお買物なんて時代ではなく『JJ』発売日に雑誌を買って気になるページの耳を折って電話をする。『JJ』ではいくつものトレンドが生まれましたが根底にあるのは〝お嬢さん〟でした。
当時のJJを振り返って…
STORY編集長 河合良則
’96年に入社して、即配属されたのが『JJ』編集部。未熟な「女性誌の男性編集者」だった私が、初めて読者の気持ちにシンクロできたと感じたのが、「シンプルズ」というキャンパスファッションを特集したページ。当時、神戸の女のコの華やかなファッションを特集した「可愛いゴージャス(略して可愛ゴー)」企画と人気を二分しました。こういったワーディングを駆使して読者間のトレンドを大きなムーブメントにしていくのが『JJ』の十八番。第1次プチプラブームが起こった頃の、4人組表紙を担当したことも印象深いです。このコーデをそのまま〝マネキン買い〟したい読者がショップに殺到して、連日、長蛇の列ができたという話も。『JJ』の影響力の大きさを思い知らされた経験でした。
【メイン画像】高垣さん:コート¥126,500〈TAGLIATORE〉バンドカラーシャツ¥38,500〈AGUTTA〉デニムパンツ¥37,400〈PT TORINO〉(すべてトレメッツォ)ピアス¥33,000(MAAYA)ブレスレット¥14,300(リプサリス/ロードス)畑野さん:ショートコート¥121,000〈AGLIATORE〉ストライプバンドカラーシャツ¥35,200〈AGUETTE〉デニムパンツ¥34,100〈PT TORINO〉(すべてトレメッツォ)イヤリング¥28,600(リプサリス/ロードス)
撮影/曽根将樹(PEACE MONKEY)、五十嵐 洋〈静物〉 モデル/高垣麗子、畑野ひろ子 ヘア・メーク/森 ユキオ(ROI)〈モデル分〉 スタイリスト/竹村はま子 取材/小花有紀、味澤彩子、尾崎亜佐子
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