【ゴールボール小宮正江選手】パラスポーツに全てを捧げた選手や家族の「パラリンピアン」STORY

障がいがあると「できない」「危ない」と思われがち。しかしパラリンピックでは障がいを感じさせない迫力あるプレーに歓喜するはず。耐え抜いた先に得るものがあると知っている選手たちは、新型コロナウイルスによる延期も〝プラス1年〟の力に変えました。何度も壁にぶち当たり、乗り越えて巡り合ったパラスポーツに全てを捧げた選手や家族の、試合では見ることができないSTORYを紹介します。

小さい頃から現状を受け入れて続けてきたから、大会延期にも動揺はなし。むしろ時間の分強くなれた気がします

ゴールボール代表 小宮正江選手(46歳・福岡県在住)

ロンドンパラリンピック金メダリスト/アテネパラリンピック銅メダリスト

’04年アテネ大会からパラリンピック4大会連続出場、’12年ロンドン大会では主将としてチームをまとめ、団体競技初の金メダルを日本にもたらしたゴールボール界のレジェンド・小宮正江選手は、小学2年生のときに医師から網膜色素変性症という病名を告げられました。「今の医学では治らず将来失明する可能性があると言われましたが、見えていたため実感は湧きませんでした。ただ、下に物が落ちていても気付かなかったり、机によくぶつかったりする理由は判明。視野が狭くなっていたんです。小・中学時代頑張っていたバレーボールでは、ボールを追えずに見失ってしまうことも増えていきました」。高校に進学すると、視野は更に狭まりバレーボールを続けることを断念。友達に目のことを打ち明けることもできず「高校時代は一番心が引きこもっていた」と当時を振り返ります。その後、大学へ進学し、障がいを持った人たちをサポートするサークルへ入ったことで、小宮選手の気持ちに変化が表れます。「肢体が不自由で車いすに乗っていても笑顔を絶やさない子どもたちに出会い、車いすはひとつの個性なんだなと感じるように。それ以来、自分の目も個性だと思い、友達に話せるようになりました」。
20歳頃にはほぼ視力を失うも、一度は企業に就職。しかし勤務を継続することは難しく、退職してマッサージの資格を取得するために通った福岡視力障がい者センターでゴールボールと出合ったのです。「ゴールボールの大会メンバーを募っていた中で私にもたまたま声がかかりました。“ゴールボールって何?”という感じで初めてでしたが、体を動かすのは好きだったのでやってみたら、西日本大会で優勝。そしてあれよあれよという間に世界大会です」。もちろん簡単に輝かしい成績を残せたわけではありません。それでも“普通にやる”までが限界だったことが、ゴールボールでは練習すればしただけ上達し、結果もついてきたためそれが何より嬉しかったといいます。
来る東京パラリンピックに出場すれば、5大会連続出場の偉業を成し遂げる小宮選手。1年延期になった思いを伺うと少し意外な答えが返ってきました。「視力が失われていく現状を都度受け入れ、その度にできることをやってきたので、状況に対応するトレーニングが自然とできていたのかもしれません。パラリンピックが延期になった、じゃあ何ができるのだろうって。逆に時間が延びた分、チームも自分自身も強くなれたのではないかと思います」。

    選手は全員アイシェード(目隠し)をして、鈴の入ったボールを相手ゴールに投げ合い得点を競う競技。写真は小宮選手の練習風景。
    アテネ大会銅メダル(右)とロンドン大会金メダル(左)。「金メダルは、大会後たくさんの子どもたちに触ってもらったので、色が少し変わっているかも(笑)」。
    ’16リオデジャネイロパラリンピックにてチームメイトの浦田理恵選手、車いすテニスの川野将太選手と一緒に。
    小学校で講演中の小宮選手。子どもたちにゴールボール体験をしてもらうことも多い。提供/シーズアスリート

撮影/西あかり 取材/篠原亜由美 ※情報は2021年8月号掲載時のものです。

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